memo

書こうと思っていたことを忘れてしまい結局書かないことになりそうなので羅列。

合理主義的節約対共同体的気遣いという対立軸は、正解のある分野の内側で成り立つ。正解のない分野では問題は交渉局面に移るが、交渉局面においては、言葉に対して、実質と語り口という分離は存在しない。ここで交渉というのは共同体以前の局面のものを意味する。

双方が納得するためのものが共同体以後の意味での交渉であり、双方が納得するというのはどういうことかという前提を構築するのが共同体以前の交渉。共同体以前では相手の反応についての前提がないので気遣いは成立しないか、一方通行。

この局面での交渉が決定するプロトコルは恣意的なもので実質主義的にはどうでもいいように見えるが、しかし、実際にはこの時点で「記述・表現困難性」に大幅な格差が形成される。記述・表現困難な事態は、発見困難なことでもあり、問題化・意識化困難でもある。

七姫物語。新刊。異なる正義の構想。そしてそれらすべてを相対化してしまう戦乱の大国。真都同盟のやばさがイカス。

合理主義は、恣意的なプロトコルによる表現・記述難易度格差のもたらす効果を軽視する。

いかに物語るかということが、その理論の外部にある分野と、分離不可能な分野。

パラダイムシフト。ぎりぎりのところではその理論の一部ではない哲学的含意が変換される事態。理論の同一性は自然の側のリアクションをどう予測するかということによってのみ定義される。したがって、同一の理論の無限に異なる意味が存在しうる。

アリストテレス。現勢と潜勢。実現しようとする力としての潜勢の動的な場としての世界。

このとき、動的観点からいえば、エイドス(形相)とは力の残す痕跡であり、ヒュレー(質料)とは力に対する抵抗のことである。(おそらく偏った理解)

家族的類似性とリゾームの概念の類似性。このふたつを、同じ事柄を指すものとして読め。

犬神家の一族坂口良子の魅力を味わう映画。

オードリー、緒川たまき佐伯日菜子。傾向がないとはいわない。我ながら分かりやすい。

非モテは恋愛なるものの圧迫を非難する。しかし、色恋はどうか。西鶴も駄目なのか。

ストックとフロー。この日記では2003年2月言及。
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030214/p2
http://jouno.s11.xrea.com/archives/b2/weblog73.html

アリストパネスマイケル・ムーア。エロが後者には足りないことの意味合い。

レーア姫ブサイク問題。みんな思ってることだと思ってた。誰か萌えレーア姫バージョン構想を書いていたが場所を忘れた。ジャンヌ?

ペルセポネはある種の萌えキャラの原型なのではないか。その冥界的な昏さも含めて。

マイフェアレディ。ドゥーリトル氏が駄目人間でも魅力的な件。

説明することは思想にとっては後から付け加わるのではなく、そこにおいて思想が行われる。

おそらく私は分かったと言わせたいのではなく、本当に分からせたい、という種類の説明好きで、だから、ある意味では、たちが悪い。

相手に探し方が分かっている場合は教えないことは正当化されるが、どうやれば知ることができるか自体も共有されていない場合は、そのポインタを指すことは、相手に何かを主張する場合には、その場合に限り、必要事項だといっていいんじゃないか。

つまり、普通とは違う使い方をしているときは、違う使い方をしているということくらいはいう、ということ。義務といってしまうと違う。主張するという行為は、そこまでしてはじめて、成り立つ、というか機能する。

本気かどうかわからないことに味がある場合はどうするのか。という問題。

http://www.rubyist.net/~matz/20050706.html#p01

wikilog的な発想から言うと、tDiaryCMS的利用というか、普通のサイトのような使い方をした場合、日付文字列がちょうど、ここでいうランダムな文字列みたいになってる。つまりスタティックページ。アバウトページなんかもエントリーと似たインターフェイスで管理できるというやつ。Wordpressはデフォルトでスタティックページ機能がある。タイトル検索と同じ機構で個別のページを呼び出す。完全一致のみのgetでのタイトル検索での呼び出しにすれば、wikinameと体感的には変わらない。tDiaryなんかの日記ツールもurlからの完全一致のタイトル検索でエントリーを呼び出せるようにすれば、CMS的利用のとき、URLが直感的になるし、ページ同士の相互リンクもしやすい。

原因の概念。継起と因果関係の区別は明確なようでいて考えるほど不明確になる。しかし、ある条件ではこの二つの区別は比較的はっきりする。反復する事象について、反復を通じて同一な要素について、一般的に述べる場合。この場合、独立変数と従属変数という関係が、擬似的に、ほぼ因果関係と類比的に語れる。しかし、因果関係の概念は、操作的には、独立変数と従属変数の間の関係として擬似的に定義可能であるようにも見えるけれども、因果関係の概念は、引き起こす、という、「力」の概念を含んでいる。

力とは観察可能な何かなのか。

力は度合いの変化によって定義されるメタ概念である。だから、そこから翻って、それが、実体的基礎を持つかどうかという問いは、そもそも有意味な問いなのか。度合いの変化は力の効果なのか、力の定義なのか。この二つを区別する意味はあるのか。

(このへんたしかデカルトとかスピノザとか。加速度。変化の変化。)

自然現象は関係要素を全列挙できないことに特徴がある。しかしこれは認識の限界か、現象の側の問題か。量的な問題か、質的な問題か。

原因の概念のわからなさと力の概念のわからなさは似ている。物事はなぜ起きるのか。先行の物事が「引き起こす」からである、と答える。この答え方は正しいのか。また、そもそも、正しいか以前に、この答え方で答えになっているのか。物事は単にそこにあるのである。何故はない。物事の間の「整合性」だけがある。という答え方もある。その場合、神学的な言い方をすれば、神は、すべての時間のすべての事象を一挙に、それぞれ個別に、しかし整合性は保って創造した、ということになる。この場合、「力」は、人間知性の見出すフィクションにすぎない。

力は実在するのか。

しかし翻ってそもそも力の概念を意志の概念と無関係に討究できるのか。

力とは方向を持つ。方向とは意志の向かうところである。

ニニンがシノブ伝やっぱりいいよね。

ルパンの声に対する違和感の世代間格差。

考えてみれば、ペットとしてではない動物が出てくる小説はたいていやばい。カフカとか。等身大の動物とかだともうかなりだ。そういうのが好きだ。

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050707#p02
高速道路化。
適切なタイミングでバランスのよいカウンターをもってくるセンスのよさ。

近代理性批判についてはそもそもきちんと成立してもいないものの弊害指摘のほうが先行するのはどーよという話はけっこうまえからある批判。

日本神話に対する息苦しさは、天皇家の関連の話しかないところ。

ギリシア神話ではアトレウス王家以外の話もいっぱいあるし、同一人物のそう反する評価も存在する。問題はこの多視点性。神社伝承もふくめればあるんだろうけど、現在ではほとんど皇室系神道に統合されてしまっている。つまり、記紀をカノンとしてみとめる神学をとる、という意味。もちろん、現在ではっていっても最近どうこうということじゃなくて、この千年来、ということ。

皇孫は複数系列いたはず。ニギハヤヒはどうしたという話。アマテラスの神勅の部分だけでも天皇氏族がいってるだけ、ということにはならないものか。

神話が面白いのは、全世界について語っているはずであるのに、具体的に地理的外国の話が出てこないところ。つまり、神話時代に外国がどうなっていたのか教えてくれない。日本神話の神々は日本の管轄権しかないのか、全世界の管轄権を持つのか。この点だけでもはっきりしないと、信仰の対象にはしにくい。逆にいえば、アグニは、ヒンドゥーのことなんか一生知りもしない誰かの家の台所の火も支配しているのか。この辺に、多神教の信仰の微妙な感じがある。信仰される対象が信仰する人間と微妙に不可分なように感じられるところ。

天の概念。殷の時代には人格神だったらしい。周王朝というものの変なところ。なぜやつらはこんなに歴史好きなのか。忘れられることへの恐怖。天帝を天へと非人格化しある程度世俗化した要因はなんだったのか。

ツンデレ。デレデレするのは(たいていの作品ではむしろ)男である。ツンデレのキャラクターの「素直になった」後の状態をデレデレと評価するのは単純に違和感がある。あれはむしろ、テレテレだろう。語源的に、デレデレからじゃないのなら納得がいくが調べてない。