てつがくめも

ドゥルーズデリダについて。
ぼくの理解する限りシンプルな定式が中心的な業績として出せるように見える。
デリダ。間接性は還元不可能である。
ドゥルーズ。多様性は結果ではなく原因である。
以上の認識はそれまでにもあったが、これまでは異論もあった。
ほとんど異論の出ないところまで証明したところが重要なんじゃないか。

情緒と言語=概念は対立しない。ある種の日本文化理解はだから間違っている。
対立は、情緒=言語=概念と身体=即物=諸機械の間にある。
感情=情緒は、身体というシステムにとっての出来事の意味だ。だからそれはシステムのアルゴリズム=文法に従う。生理=心理的意味で、非常に合理的な存在だ。それが社会的理性と対立するとしても、それは集団システムと個人システムの間の対立であって、合理であることは変わらない。また、機能である限りで、個性的ではあっても特異ではない、一般的なものだ。
一方で、身体=即物=諸機械というのは、そうしたシステムにとっての意味の観点から見たものではない、あるいは現にそうした「機能」を担っていない現実のフェーズのことだ。非目的論的な端的で非機能的な出来事のことだ。広い意味では、システムは、諸機械の諸接合のうちの一時的な状態だといえる。

論理は自然の属性ではない、人間主体の恣意的な設定であるという説がある。
この相対論には疑問がある。
もしも、論理が主体の恣意的な設定であるとすれば、論理はどこに由来するのか。主体を、外部に起源を持たない「源泉」とすることほど神秘的な人間主義はないのではないか。論理が人間身体に由来し、人間身体が自然に由来するとすれば、自然と論理の間には、すくなくとも原因と結果の関係がある。この因果関係から、写像関係を帰結することは、たしかに気が早すぎる。だから写像的な関係を論理と自然の間に否定するのはいいとして、恣意的設定であるとしてその必然性を否定するのは間違いではないのか。それはやはり主体を「なんでも自由に設定できる存在」として神秘化することにはならないか。だから、必要なのは、自然史的考察なのではないだろうか。