シュウダンチ

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050823
例としてあげるURLが適切かどうかは詳しくないので分からないし、類似もとりあえず表層的なものなのですが、essaさんの集団知論に関する違和感は、経済でひところ言われたニューエコノミー論(http://www.nagaitosiya.com/a/new_economy.html)やある種の「ブードゥー経済学」での市場への政府介入が市場の失敗の主原因であるという見方や、哲学での歴史の終焉論と類似のものを感じるからです。とくにニューエコノミー論への批判は参考になるのではないでしょうか。

集団知にはなにか単純な市場的な最適化プロセス以上の創造的機能があるという仮説の欠陥は、検証不可能なことです。撹乱要因という因子を恣意的に持ち出しうるならば、失敗の原因を外部に求めるか内部に求めるかは立場の違いだけになってしまう。つまり、何を持って集団知の「結論」とするかが形式的に定義可能でなければ意味はないはずです。essaさんは集団知の精髄としての出力と、その集団でマスを獲得した意見を同一視している。そして、危うさはまさにこの点にあります。そうである必然はどこにもない。

社会的なコミュニケーションのとくに政治的分野における濃度と密度が上昇することが、その一般的な質の向上に寄与することをぼくは否定しません。それは量的なだけではなく、構造化されて質的なものとなりうるでしょう。問題は、わたしが批判しているのは、そこから、特定の意見が、選出されるという立場です。情報ネットワークは、そのネットワーク内部で生成される意見の洗練や向上には寄与します。この創造的機能は確実に存在します。ですから、情報ネットワークの創造的機能を批判しません。これは総体としては信頼するに足るものでしょう。問題は、私は、ネットワークの選出機能は信頼するに足りない、と考えているということです。

essaさんはネットワークを介した情報交換は、意見の質的向上だけではなく、すぐれた意見がマスを獲得する能力をも向上させると仮定していますが、そのようなことは(意識的努力なしには)ない、とわたしは考えます。

集団知が賢明な意見を生み出しながら、それ自体総体としてはおろかである、のはなぜかというと、マスは共通利害と意思主体を持たないからです。聡明であるためには選択の基準を持たなければならない、なぜなら、すでにコメントでも述べましたが、知的賢明さだけでは複数の意見の間からの選択をすることはできないからです。

実践理性と理論理性は異なります。ネットワークを介在したマスの合意とは、妥協の産物であり、つねに、もっとも批判の少ない意見であるほかないのであって、もっとも賛成の多い意見であることはできないのです。これは、そもそも、選択基準に統一性のない参加者によるネットワークというシステムの形式的なのりこえ不可能な制約です。

単純に考えましょう。アメリカに行きたい人とフランスに行きたいひとなどいろいろなところに行きたい人がたくさんいる場所を考えます。ここでこのひとたちが議論して、その経路を決したとします。この出力結果としての最短経路は、アメリカに行きたい私には役に立つかもしれませんが、ロシアに行きたいかれには役に立たないでしょう。しかも、妥協のため、アメリカに行く経路としても最短ではないかもしれない。ただし、このことは、この合議が無意味であることは意味しません。政治的機能をはずして考えても、合議の結果として、この集団のなかには、アメリカへの最短経路も生成されえます。これはあきらかにネットワークの創造的機能です。問題は、それとマスを得る意見は一致しないということです。それはマスを取るために意見が持たなければならない条件と、われわれがその意見をすぐれた意見であると評価する条件が同一ではないからです。

目的地が共通であってはじめて、最適化プロセスは有意味なんです。集団知が賢明かどうかは、評価する側の賢明さや目的とする状態の基準しだいです。純粋に理論的問題ならば、集団的情報プロセスのmassの出力は信頼可能でしょう。しかし、価値的問題では、集団的プロセスは信頼不可能です。

essaさんの暗黙の前提に、目的とする状態について暗黙の高度の共有前提が存在するということがあります。本質的に同質なメンバーによる集合的プロセスだからこそ、「私の最善」と「集団の最善」が一致すると信頼可能なわけです。しかしそんなことはありえないか、もしくは、集合的プロセスが、自己成就的にそうした同質性をなしとげようとするかもしれませんが、それは肯定可能なのか。

トーナメントで考えれば、わかりやすい面もあります。トーナメントはもっとも強いものを選び出すシステムとしては非常に劣悪です。緒戦で強豪同士がつぶしあうのはよくあることです。ならばリーグ戦にすればいい、ということになる。さて、ここで、考えましょう。「強さ」とは何ですか。ここでは倒錯が行われている。勝者と強いものの定義がここでは独立ではない。むしろシステムこそが強さを定義している。勝者と強者が一致するようにシステムを定義するためには、勝ち負けと独立に強者が定義できなければいけない。