禁煙ファシズムについては
折しも山形浩生が、小谷野敦ではなく室井尚を相手としてだが、過度の反・嫌煙プロパガンダに批判的な文章を書いていた。とりあえず一読では、返す刀での、行き過ぎた嫌煙派の現状への批判的目配りもきいていて、バランスの取れた論考という印象。
http://cruel.org/other/smoking.html
via http://d.hatena.ne.jp/zokkon/20051001#c1128179502
追記。なんだ、ブックマーク見たらけっこう前から話題だったのか。
そういえば、かつて、シミンと思いやりでリンクしたページには
喫煙者を救え!
http://www.letre.co.jp/~iwaki/smokers/
という論説があり、これもさすが出色の内容。
基本的には害は害として、嫌煙の行き過ぎはリベラリズムの立場で批判というのが穏当なのではないか。
しかし、これは思いつき程度のことなのだけど、依存性のある嗜好品が、とりわけ生存・労働環境の厳しいひとになおさらストレス緩和ツールとして必要とされる、そして、そのおかげを、他の市民はこうむっている、という側面もあると思う。ストレスのつよい職場において、「それがあることで働くことができるが副作用のあるもの」というのはタバコ・アルコールに限らずいろいろあるんで、そして、そういうものは通例、労働者が、自主的に、自分のために、とりいれているんだけど、こういうものの、副作用・被害というのは、実は非公式の、そうした職場が成り立つ必要経費なわけで、つまり精神的な、ストレス面でのコストの末端へのしわ寄せがここに存在するんで、のまずにやってられない仕事をやらせるために酒を与えておいて相手が中毒したら、ときどき降りてきて、だからきみらは自制心がない、というような説教したり偏見を新たにしたりするのはどうか。なにごとも原因・理由があって、決して個人の心や意志の強さの問題に還元してはいけないわけで、むしろ考えるべきは、ある限度を超えた依存が生じる社会的原因を根絶することのほうなんじゃないかという気もする。
実際、新自由主義的言説において、「自己管理ができない」というような「悪癖非難」が、明白に階級的含意をもっていることは否定しようもない。ここには、またぞろ、「自己責任」という幽霊的なフレーズが、扉の影に身を潜めているのではないか。
しかし、こういう新自由主義的な健康言説、自己管理能力という神話が、非難に値するものだということは、「悪癖」が、当事者にとって実害がない、ということではないのであって、健康言説への対抗心のあまり、害を否認したところで、その効果は自分たちに跳ね返ってきて、相手を利するにすぎないのだと思う。