アンナ・カレーニナ読了 

ISBN:4003261712
レーヴィンがあきらかに作者の視点というか支持が込められていて、その部分はやや退屈。しかし、ヨーロッパのものと違って、ロシアにおける西欧派とロシア・民衆派の対立というか議論は、後発で西欧化した国としては興味がないわけではない。ただもちろん、それはやはり小説的興味の中心からは外れる。

カラマーゾフでアリョーシャはたしかに作者の主張や視点が託されているのだが、なぜか、アンナでのレーヴィンのような退屈さは感じられない。それはおそらく、「アンナ」ではレーヴィンは相対化されないからだ。

アンナ死後も物語りは少し続く。後始末的な部分だが、これで、アンナの死で終わらないということ、戦争がすべてを飲み込んでいくことは注目に値するはず。戦争による終わりという点では「魔の山」がいやおうなく想起される。

ステパン・オブロンスキイやセルゲイは非常に批判的に描かれている。この皮相なインテリや都会人士を批判するという相で見てもあまり益はないだろう。

にしても白樺派って、ほんとうにトルストイ・フォロワーだったんだなあ。読んではじめてわかった。あとはかれらのヒーローというとロダンだけど、ロダンってどんなんなんだろう。

トルストイの美点は、ちょっとした不快感の移ろいを几帳面に描くところ。そのことによって、生活の索漠とした現実感が出る。しかし、他方で、それはモノローグ的な「自我」に忠実な描写というだけで、関係の描写としてはなんとはなしに不満が残る。

カレーニンが離婚しないのは復讐の念からなのか、意地なのか。結局、アンナが追い詰められたのは、究極的には、彼女に経済的独立がないからだろう。

気分の移ろい。トルストイにおいては、なにもかもが気分の移ろいであるようにも見える。たしかに、宗教的感情、生活の現実の二つだけは特別扱いなのだが、しかし、それは地の文がそう主張しているだけで、やはりほかの気分の高揚と同じように、気分の状態として描かれている。結局のところ、自我のステータスであることには変わらない。

しかし、アンナの嫉妬は気分の移ろいとは位相が違う。それは現実の関係の形式を反映している。

ウロンスキイは一面では無神経なディレッタントであるけれども、それほど悪くかかれてはいない。かれの問題は、アンナの身になってみないところだ。しかし、二人ともまったく思い切ったことをしないで内心でぐちぐち思い惑い、ちくちくいじめあうだけなのでフラストレーションが読者はたまる。外的アクションに出せばいいのに、というのはドストエフスキー読者のないものねだりか。

トルストイは宗教や民衆的生活を別扱いにしようとがんばるのだが、あまり成功していない。そういう部分はやはり、浮き上がっている。

しかしヴェセローフスキイはなんかむかつくな。何でだろう。

鉄道での自殺を予告するシーンを何度も入れるのはやりすぎ。それをいえば、始まりと終わりを駅で照応させるのもあざといが、これは昔の小説なので許容範囲。ついでいえば、これは誰かの受け売りの批判だけども、死の瞬間の意識をかくのも、ちょっとやりすぎ感が漂う。もっと痛いとかなんとかありそうだし。

アンナがおいつめられるまでが長い。これは必要な長さなのか。レーヴィン・ラインとアンナ・ラインのつながりがいまひとつゆるい。ちょっと繰り返しが多いというか、もたもたしている。

カレーニンが新興宗教に走るという着想は面白いし、それで離婚が成立しないというのはイロニーがあっていい。ここは追求すると面白かったかもしれない。

なんだか、登場人物の思想の変化を定点観測して紹介してくれるのだが、そのような変化が起こるにいたった経緯を追ってはくれないので、統一的な像を結びにくいところがある。描かれていないところでおきた心情・思想の変化の理由は、報告されはするのだが、直接描写されはせず、変化した結果としてのあたらしい心情・思想が描かれるだけなので、説得力が弱い。

合理的な、心理主義的描写があればいいという意味ではない。そうではなくて、ひとつの選択やコミットメントが別の選択やコミットメントを引き起こす、という意味での、アクションとリアクション、心理との関連が弱い。心理は心理だけで、受動的に出来事を受け取り、そこで気分が移ろうだけに見える。そこがわかりにくい。

全般的にいうと、あまり、面白くはなかったかなあ。

戦争というテーマは意外とこの小説において重いのかもしれない。

奇妙な不安と予感の雰囲気。

アンナよりもカレーニンのほうが興味深い気がする。意外とアンナはわかりやすいキャラクターで、エンマ・ボヴァリーほど、キャラクターとして生きていない。しかしそれはなぜか。