祝祭と死と笑い

バフチンと文化理論 第一章 ニコライ・パンコフ論文よりバフチンの博士号請求口頭試問における発言を孫引き
バフチンと文化理論 (松柏社叢書 言語科学の冒険)

「これは広場の笑いであり、遊びの笑いとは何の共通点もない民衆の笑いなんです。違った種類の笑いなんです。苦悩する(mortify)笑いであり、そこには死が常にあるんです」(議事録 p97)

「これは非常に典型的なんです。でも陽気さと笑いが同じ場にあったんです。そこは彼らが死ぬ場であり、臨終を迎える場です。しかし、ここには笑いもあるんです、……カーニヴァルについては、わたしはカーニヴァルを何か楽しいものとは思っていません。全然思ってないのです。カーニヴァルには死がつきものです。あなたたちの言葉では悲劇です。でも、悲劇という言葉が最終ではありませんよ」(議事録 p98)

 また、第二章の論文を読むと(訳が難解だけれども)しばしば議論の対象となった、バフチンの小説の理想化というものに対する研究の現状というのがなんとなくわかる。

 理解した限りでの、触発されたことのメモ。ただし論文は全然こんな言葉遣いではない。

 モノローグ性というのは、アイデンティティ化の効果であるといえる。

 ダイアローグ的生産性は、非人称的な前-アイデンティティ的、あるいは下-アイデンティティ的な、いわばドゥルーズ的な諸差異の海=機械状交雑空間によっては形成されない。

 いいかえると、対話的意味関係、多声性は、諸記号・諸機械の直接的なフラットでアナーキーな空間においてではなく、いったん、もろもろの場所における、局所的な人称的統一、アイデンティティ化、モノローグ的自己同定を条件として必要とする。

 小説の言葉における多声性(ひとつの言葉の中に浸透している複数の声、意味のゆらぎ、強度的・内包的対話性)を、演劇は、外延化し、複数の声の、それぞれの声においては単一の意味という形式として、内包的対話性を損なう、というのが、「小説の言葉」のモデルであった。

 しかし、小説の言葉において達成される内包的多声性は、外延的な、普通の意味での、つまり演劇的対話との関係を喪失することはできない。内包的な対話性としてのポリフォニィは、対話の反響として、「声」というアイデンティティ的・モノローグ的な自己完結性を持たざるを得ないものを、その要素として持つ。

 内包的対話性としての多声性との関係において、それを否定しない限りで、その基礎となるタイプの、外延的対話性を他方では一方の声として構成する、モノローグ的人称的統一性、アイデンティティ化の運動が存在する。

 つまり、むしろ肯定的に、ダイアローグの不可欠の前提として考えるべき、局所的・複数的・暫定的なモノローグがあるのであり、それらの諸留保を付した上で、アイデンティティ化の運動を、否定的にではなく考察することが可能になる。

 で、これはアイデンティティの政治においてとりわけみられたことであり、前アイデンティティ的・あるいは下アイデンティティ的な、多様性の名において、リベラルで、個人主義的・相対主義的な言説は、対抗的言説の、アイデンティティ形成の方向性を批判してきたが、たしかにマイナーグループ内部での純粋化がさらにマイナーなグループを内部につくりだし、抑圧を再生産するという批判は無視できないけれども、ダイアロジカルな関係性の形成のためには、ある一定の歯止め・留保のうえでの対抗的アイデンティティ形成は、肯定されるべきではないのか、ということ。

 バフチンに向けられた、対話というのは結局、人称的主体の間におきることで、主体化・人称化による抑圧という問題を免れていない、というしばしばおこなわれた批判には、一方では、その「小説の言葉」におけるような内包的対話性としての多声性が、人称的な、演劇的対話におけるような話者主体の自己同一性を脅かす、と反論することもできるが、しかしまた、同時に、そうした、肯定的な内包的で、主体逸脱的な対話性の成立の要件として、「多数性・複数性」が必要であり、この多数性・複数性は、ある「限定的なモノローグ性、アイデンティティ化」を必要とする、ということもいえる。

 つまり、バフチン的な対話主義がポストモダン相対主義のある種のものと袂を分かつのは、フラットでアナーキーな諸差異の解放ではなく、局所的で限定的かつ暫定的で、もっとも枢要な特性として多数的で複数的な(内包的に多様なのではなく外延的に多数的な)諸主体と、その自己同一化を、対話の前提として選択し、肯定するという点においてである、と思われる。

 ここで述語として、多様性と多数性を区別してもいいかもしれない。

 つまり、具体的で相対的、かつ複数的な他者関係が成立するためには自己同一性が必要になる。つまり、自己同一性は、対話的関係によってしか更新・変容・開放されないが、対話的関係のためには、関係者たちが、自己同一性を有していることが必要になる。齟齬葛藤は、インタレストを前提条件とするが、自己同一性なしにインタレストはない。自己同一性の成立を阻止することによって達成される、前・あるいは下・自己同一性的な、差異のアナーキーな平面は、意味を生成しないホワイトノイズであり、ホワイトノイズとして逆説的な、「つねに乱雑である」という自己同一性を獲得してしまう。

 と、ここで二重分節性を想起するのは、それほど変ではないと思う。

 で、ここでヘーゲル主義的な統合止揚というふうにいかないためには、主体の過剰生産こそが必要なのであり、主体の廃棄ではない、ということが言われる必要があるんじゃないか。主体というのは、インターフェイスなのであり、インターフェイスとして、限定もされ、また肯定もされるべきだ、というような。

 (思いつき。決して相殺されない、責任の相互性。)