弥生とか

http://d.hatena.ne.jp/tuki1gironn/20051214/1134544495

(注。何回か書き直しています)

えーとですね、まずオーダーについては、ぼくは六千人でも十分多い、つまり、(神武天皇Y染色体の保存という点で皇室を特別扱いする理由はないという観点から見て)ごろごろいるという表現に値すると思うので、あるいは、当時の世代までさかのぼったとき男系同祖であるという観点で人々をグループ分けしたときに、国内では最大か少なくともベストテンくらいには入る集団である、という程度のことが言えれば十分なわけです。ですから、その点では争いませんよ。百万でも千万でももともと(計算の基礎になる)数字を出して議論していたわけではないので。

そのうえで、議論に同意できないところがいくつかあります。

まず縄文・弥生、あるいは渡来、在来の区別。この区別は議論に基本的には関与的じゃありません。ぼくの提出した議論にもともと国境の内外の区別はしていない。だから、その渡来系の、というようなひとも(勝ち残りYが多数に上る、という論点までの議論では)もとからカウントに入っています。

身分による繁殖優位を考慮にした、神武男系子孫、皇族+皇別諸氏族とその分家の、勝ち残りYのなかでのさらなる優位、という論点ですが、この論点については、渡来の考慮は関与的(国外では身分優位は別の家系にあるため)ですが、相対的優位については、渡来は、相対的に在来より少数でしょうから、その順位を基本的には動かさないでしょう。

同様に、娘の動向も関与的ではありません。娘がいくら増えようと、誰と結婚しようと、その父親の染色体の反映や拡大には、無関係です。もとからカウントしてません。極端な話、この世に女性がいなくて、男が単為生殖する場合でも、議論は同様に成り立ちます。というか、Y染色体にだけ着目している限り、男が単為生殖しているのと計算上は同じです。

身分に関する議論については、家督以外の男系子孫は、断絶しなければみんな相対的には身分が下がっていきます。カーストなどの血の移動がない階級とはまったく意味が違います。子供を残す数というよりも、できた男子が男子を残すまで生き延びる確率が問題なわけで、その点では上流階級が圧倒的に有利です。そして、上流階級が一定数にとどまるのは、上流階級の子孫が一定数にとどまりつづけるからではなく、子孫のうちの多数をつねに下の階級に出していくからです。また、「認知」される必要なんて遺伝子にはないんですから、「お手つき」で十分なのです。この場合には相対的な個別の繁殖条件での有利はないわけですが、数の優位の計算には入ります。

(念のためにいうと、身分・階級を基準とした性淘汰が働くのは基本的にはY染色体に関してだけで、その他の染色体に関しては女系でも伝わるので、遺伝子の存続に身分が上のものが非常に有利、ということはないと思う)

苗字に関する議論は、庶民の家系図は信用できない、だから皇別諸氏とその子孫であると称する家系が非常に多いことは事実だが、それは証拠にならない、という議論なのだと思うけれど、この議論は、日本人の大半が、という議論への反論としては一定の意味があると思いますが、家系図がある程度信用できる有力家系とその子孫だけでも十分、子孫がたくさんいるとみなしていいだけたくさんの家系があると思うので、それほど重要とは思われない。いいかえれば男系子孫ではない、ということもいえないわけで、この点では、苗字は傍証としては、ある一定以上のオーダーを主張するには弱い、というところでしょう。しかし、珍しくない、という程度のオーダーの主張するには、十分すぎるほど多い、と考えます。

あと、念のために書いておきますと、ぼくは「女系容認」「皇統存続」については「どちらでもいい」という立場です。左翼や進歩派が廃止論だというのは間違いです。しいていえば不要(どうしても不可欠、というわけではない、という)論にすぎないので、廃止すべき積極的な害がある、という議論は、いまや、共産党などのごくごく一部の認識に過ぎないでしょう。ですから、八木のような陰謀論まがいの警戒論は、過剰反応です。

参考

http://www.sh.rim.or.jp/~engokai/nihao/75_04.htm
韓国については姓の発生時に中国の姓の中から選んだことや、近代になって庶民が大量に姓を獲得した、という事情があるのでとりえずおくとして、中国の姓の少なさ、十億に対し数千というのは、参考になるのでは。もちろん、三世紀ごろ(大和朝廷成立時)を基準として父系同祖であった、という、神武を論じるときの条件がここにはあてはまらないので、単純に中国の姓ひとつあたりの人数はあてはめられませんが。

なお、数学なんかではゴルトン・ワトソン過程 
http://en.wikipedia.org/wiki/Galton-Watson_process
というらしい。優生学のフランシス・ゴールトン。

これはちょっとわき道。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/myouji.htm
江戸時代にも庶民にも名字はあっただろうという話。