先日の社会科学と方法論とか客観性の関連で見つけた日記

http://d.hatena.ne.jp/contractio/
http://d.hatena.ne.jp/Gen/

このへんの話は
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040628#p01
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040625#p01

専門的にはいまどういう話になってるんだろうというのは知りたかったりはする。ルーマンかあ。ウェーバーもひまがあったら読まないとなあ。先日の話でも厳密に言うと社会科学の話と自然科学の話は別の話なんだろうし。

あと、社会科学的には、限界分析の印象の強さというか、経済学の「成功」というものが応用できないかなあ的なものがありそうな気がしなくもない。そういやブードゥー経済学が恋愛とか教育の経済学とかいってたし、論理学は様相論理学の勢いで同じように恋愛とか教育とか倫理の論理学とかやってたなあ。あのへん生き残っているのかしらん。

関係ないけど一言いっておきたいのは
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040623#1087970126
「これである」は面白かったということ、これである。

追記
http://d.hatena.ne.jp/chocolat_chaud/20040628#p1
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040628#p5
構築主義の話。

サタイアについて

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20040627
アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」
http://www.e-freetext.net/mdstj.html

しかしサタイアがまさしくそのまま実践されてしまうという二十世紀的経験と、しかもその極度に過剰な経験が、その過剰さゆえの極度の真実らしさの欠如ゆえに、事後にありえたはずのない出来事として、まことにもっともらしい説得力をもって否認され、その痕跡が存在したという痕跡すら失われつつあるという現実。(体言止め)

……しかしサタイアが痛いのは真実をついているからだろう。このテキストは英国国教会カトリックへの非寛容と迫害、イングランドアイルランドへの抑圧への諷刺、あるいはアイルランドの窮迫の訴えと一般には理解されている。だが、そうとだけ考えるにはこのテキストは過剰だ。

(そして末尾の一文はちょっと面白い。)

このテキストは実際に国教会のエスタブリッシュメントによってまじめにうけとられ、賞賛さえされたという。この事実は、ただの諷刺以上の何かである。

それは、きわめて古典的な意味で、諷刺とは真実を衒いなく語ること以上でも以下でもないということだろう。そしてここでいう真実とは、それによって世が成り立っているところの隠されていないのに見えないもののことだろう。隠されているものを明らかにすることではなく、隠されていないのに見えないものこそが真実なのだ、といえば、あたかも形而上学を復習しているかのようであるけれども、オイディプスを想起するまでもなく、盲目であることによってこそ見ることができ、見ることによってこそ盲目となる。

つまり、サタイアは相手の無知を暴くことではない。また、相手の無知の無知を確認することでもない。そうではなく、相手が、そして私が、誰もが知っているのだ、知らないのではないのだ、ということを語ることではないのだろうか。

恐らく諷刺の言を吐くことで勝利感を得ることはできないのだし、優越した立場にたつこともできない。むしろ、ひとの舌はますますしびれていくのではないか。にもかかわらず、諷刺によって語られる真実は、語られてしまったことで、真実であることの重荷から逃れることができるのではないか、という気もする。

とはいえ、それこそさかしげなことを書いているな、という気もする。

概念の習得と理解

ぼくは分かりが遅いので、固有名詞的な概念というか、字面から意味が推測できない哲学的概念を説明しないで多用する文章を読むと文脈自体分からなくなる。

概念には習得と理解があると思う。概念を適切に使用できるようになるのが習得、その意味を意識的に了解するのが理解。日常的な概念はほぼ習得しているだけであるか、定義的に同語反復的にしか説明できないがゆえに習得しかできないものなのだけれども、哲学的概念は、そうした日常的概念を分析し了解するためにあるのだから、習得するだけじゃしょうがないと思う。

哲学書を濫読すれば概念は習得できるだろうけど、それだと説明されるべき概念を増やすだけで、一向はなしが明快にならない。もちろん、表面的に理解しているだけではだめで習得しなければならない、という立場もあるだろうけど、こと哲学的概念については、話が逆なんじゃないだろうか。