サタイアについて

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20040627
アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」
http://www.e-freetext.net/mdstj.html

しかしサタイアがまさしくそのまま実践されてしまうという二十世紀的経験と、しかもその極度に過剰な経験が、その過剰さゆえの極度の真実らしさの欠如ゆえに、事後にありえたはずのない出来事として、まことにもっともらしい説得力をもって否認され、その痕跡が存在したという痕跡すら失われつつあるという現実。(体言止め)

……しかしサタイアが痛いのは真実をついているからだろう。このテキストは英国国教会カトリックへの非寛容と迫害、イングランドアイルランドへの抑圧への諷刺、あるいはアイルランドの窮迫の訴えと一般には理解されている。だが、そうとだけ考えるにはこのテキストは過剰だ。

(そして末尾の一文はちょっと面白い。)

このテキストは実際に国教会のエスタブリッシュメントによってまじめにうけとられ、賞賛さえされたという。この事実は、ただの諷刺以上の何かである。

それは、きわめて古典的な意味で、諷刺とは真実を衒いなく語ること以上でも以下でもないということだろう。そしてここでいう真実とは、それによって世が成り立っているところの隠されていないのに見えないもののことだろう。隠されているものを明らかにすることではなく、隠されていないのに見えないものこそが真実なのだ、といえば、あたかも形而上学を復習しているかのようであるけれども、オイディプスを想起するまでもなく、盲目であることによってこそ見ることができ、見ることによってこそ盲目となる。

つまり、サタイアは相手の無知を暴くことではない。また、相手の無知の無知を確認することでもない。そうではなく、相手が、そして私が、誰もが知っているのだ、知らないのではないのだ、ということを語ることではないのだろうか。

恐らく諷刺の言を吐くことで勝利感を得ることはできないのだし、優越した立場にたつこともできない。むしろ、ひとの舌はますますしびれていくのではないか。にもかかわらず、諷刺によって語られる真実は、語られてしまったことで、真実であることの重荷から逃れることができるのではないか、という気もする。

とはいえ、それこそさかしげなことを書いているな、という気もする。