で、本題

 大前提として、ゲームという語の具体的な対象への適用が問題になるとき、それは定義次第です。問われているのは、実はその適用がただしいかどうかよりも、定義そのものです。

 だから、ゲームという語をその意味で使うことの正当化がなされるべきであって、自分の定義の内部でいくら論を展開しても意味はない。いったん、そう定義したなら、なるほどそういうことになるでしょうが、問題はその定義そのものの適切性なんだから、ということになる。

 私はvermilionをゲームという語で呼ぶことも呼ばないこともどちらでもよい。その呼び変えでどういう差異が生まれるかと考えたとき、とくに問題になるべきものを見出しえないから。(それに対し、主観や客観のようにほかのさまざまな語とネットワークでつながれていて、恣意的な定義が、全般的な体系の変革を意味してしまう場合は、どうでもよくはない)

 ゲームという語に特定の定義をあたえて、そこから論をするのは自由ですが、その定義はあくまでも、ゲームという語のひとつの側面に過ぎない。

 それでもなお、ゲームという語に、ある特定の定義がよりふさわしく、ほかの定義はふさわしくない、という客観的根拠がありうるでしょうか。

 そうなれば、必然的に日常における用法と、ほかの語の意味との関係を問題にするほかない。しかし、ゲームという語はそれほど相互定義的な関係にある言葉があるとはおもえない。つまり、ゲームという言葉を特定の定義の仕方をすることで、ひきずられてうけいれがたい意味になってしまうほかの語があるかどうか疑問。

 したがって、日常的用法からずれない範囲で、好みの問題になってしまう。そうでない、というならば、個々の定義の適切性を判定する基準を、まず樹立しなければならない。

 ここまで書いて、むしろ注釈的のコメントすることにした。
 べつの日付に全文引用してコメントする。
 ここ http://d.hatena.ne.jp/jouno/10030425