ゲーム?

http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030425#p12
関係ないけど、tDiaryトラックバックの実装はかなり進んでる模様。
たしかどこかで送信のほうのプラグインも見た記憶が。
というのはこういうときこそトラックバックを送りたい。

もとい。
長いので、ちょっと詳細な反応はむずかしいんですが。
まずいくつか、前提。ただしじつは本題とあまり関係ない。

1 家族的類似性というのは、推移的な類似性のことです。つまり、チェスとボードゲームはこれこれの類似点がある。またボードゲームとサッカーにはこれこれの類似点がある。しかし仮にチェスとサッカーに何の類似点がなくてもよい。なので、家族的類似性について、それの及ぶ範囲を示す、ということはできません。この範囲は後述するように、実際の用法によってしか限定されないからです。

2 ということは家族的類似性は、ある対象をゲームとどういう場合に呼びうるかの規準を与えない。ではかれはこのような語の対象への適用はどういう基準で行われるとみなしたか。かれは基準はない、といいます。なぜなら有名な、「適用のためのルールを適用するためには、その適用規則が必要で、以下無限」だからです。原理的には、適用規則を適用する規則を適用する規則の……という連鎖には終わりがない。したがって、人間はルールを、どこかで適用規則なしに、いわば無根拠に適用しているのだ。と、ウィトゲンシュタインはいいます。

いいかえれば、かれは語の意味は用法に依存しているのであって、用法が意味に依存しているわけではない、といってるわけです。(もちろん、私的言語は存在しない、ので、語の用法は自由ということにはなりません。他者がいるからです。複数の他者の社会的コミュニケーションによって、語の意味は限定されます。かれがいうのは、語の意味の、個人的で形而上的な根拠を持つ限定は存在しない、ということです)

3 ウィトゲンシュタイン(面倒なので、以下、LW)はゲームをルールによって定義して、それを言語の理解に応用したわけではありません。そうではなくて、何を問題にするにしても、まずその語の適用と用法が問題になる。そのことに、ゲームという語も例外ではない、ということです。だから、ルールということが問題になっているのは、対象がゲームだからではなく、ある語の内容を考えるという場合にはつねにそうする必要があるということです。(その意味でわたしは社会学系の言語ゲーム論の理解は間違っていると思います。橋爪大三郎とか。)