国民国家

 というのは、第一に政治的で情緒的な共同体なわけで、拉致報道がいい例です。「日本人」でなくてもこの事件を非難している人は多いだろうけれど、情緒的な「われわれの問題」意識が呼び覚まされるのは、国民化の過程が効果をあげたからです。だからこそ、この「想像の共同体」が成立するためには、参政権と国民軍の成立が不可欠だった。だから、日本人という意識なんて維新以前はなかったとひとがいうとき、問題にしているのは、こういう「一体感」なわけです。
 おなじ朝廷の民である、という意識や、海の向こうのやつらとは話す言葉や習慣が違う、という意識は、じつは決して近代的なこういう情緒的な一体感を醸成しません。現代の私たちはこういう特徴によって国民意識を強化しているために、国民の成立以前にも、そういう枠組みが、国民共同体がもたらす一体感、身内意識、情緒的共同性をもたらすと錯覚しがちですが、そんなことはありません。