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「人種」を編集。いまひとつ納得いかない内容だったのでどうしようかとおもったのだが、ネットで参考文献を見つけたのでそれに従う。ぼくの見るところではこの定義は基本的には承認されていて、マイナーな規定ではないと思うので。
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000609race.html
人種概念が、政治的で差別的ニュアンスを暗黙のうちにもっていることはたしかなようだ。他方で、人種が実在しないからこそ、人種概念によって実際に人々が和解したり憎悪したりしあっていることも事実で、そういう意味での「観念としての実在」も考えないといけない。これは「日本人」項目に関しても同じ。ちなみに上記のページには民族概念の混乱についても言及がある。

ついでにいえば、しかし形質の違いというものは実在するではないか、という反論について言うと、それはそういうDNAの分布の問題であって、たとえば白い肌と青い目というように特定の形質が「群」をなすということは実際には漠然とした傾向として以外ないし、それも歴史的空間的に変動する。また、それぞれの形質の分布範囲はきわめて観念的にしか重ならない。したがって、境界を作ることも、その本質を定義することもできない。つまり、たとえばヨーロッパに白い肌のひとが多いというのは、その遺伝形質についての話であって、それはまた推移的、連続的に変化していく。それだから、そういう遺伝形質の不連続な境界と歴史的に同一の本質を持つ人種概念は、事実の認識にとって有害であるし不要である、ということです。要約していえば、それぞれの遺伝的形質について、その分布や歴史的変化を論じることはできるが、それらの特定のグルーピング、あるいはその「本質」としての人種というものは存在しない、ということです。だから、たまたま、特定の遺伝的形質と別の遺伝的形質がいっしょになって存在することが、事実問題として、より頻繁であるということがあっても、それは歴史的な偶然でしかなく、そのことに何の意味もないわけです。

より根本的な人種概念の批判。人間の遺伝的形質は無数にある。そのなかで、外見的な、いわゆる人種的種差をさすとみなされるいくつかの特徴が特権視されうるのか。これにも根拠はないわけです。ほかの遺伝的形質が、その種差的な特徴を境界とするまとまりをしているならまだ話が別であるが、そんなことはまったくない。

さらにいうと、人間は生物学的な意味だけで言ってもDNA決定論ではかたれない。ひとつの遺伝型がとりうる表現形はかなりの自由度がある。或る意味で、遺伝型は表現形を決定する、重要ではあってもひとつの因子に過ぎない。