もっとも

ウィトゲンシュタインなんかがいう、言葉の治療としての哲学、哲学的定義、分析はまた違うだろうけど、これはある言葉の用法が、暗黙のうちに含意していることを徹底させて明示することだといっていいからすこし違う。これはいま読んでいるアルチュセールにとってのマルクス近代経済学を読み替えたような、「その論理を徹底させることで内在的な破断に追い込む」というのとつながってくるような。この場合は、定義は真理値を持つというよりは、語の用法の交通整理的な面がつよいだろう。これはある意味で、複数の複雑な由来、さまざまな別の体系に属する語をひとつの体系に編成する行為といってもいい。

補足。上は思いつきなのでまとまってません。

 哲学による概念分析は、概念の混乱から来る擬似問題を退けることにある。つまり、概念語が、複数の用法と歴史を孕んでいる為に、世界のありようについての問いであるかのようでありながら、実際にはその語の用法の混乱(というかわれわれは使用そのものには混乱しないので意識の混乱)に由来する問いでしかないものがうまれてしまう、という事態を鮮明にする、ということがいわれる。(したがってこのような問いの解明はその語の概念と用法に対する知を与えるだけで、世界に対する知を与えるわけではない)上の段落でいっているのはそういうことです。さらにそのうえの段落の課題は、その混乱、複数性がうまれる理由と根拠と意義と効果についての問いです。そこでは、そのような曖昧さや複数性は「機能」しており「必要とされている」からこそあるのだと考え、そういう点からの意味を考え、そういう状況への介入として、定義を考える、ということ。