同じページから。こっちが本命。「思いやりのある人たちへ」

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シミンを市民運動をしている人たちを想定して考えるには及ばない。
ここでえがかれているような性質を私は持っていないという人も多いだろうけれど、すこしオブラートに包んだ、一見もっともな「良識的」で「折衷的」な態度でこそ、多数決主義的で相対主義的で対話抑圧的な態度は発現する。つまり、いわゆる情緒的な、というやつが問題を複雑にするのである。

ものごとはつきつめないほうがいいし、ことあげしないほうがいいし、たいはんのひとはおたがいにわかりあえるのだから、わからないことをいうひとや、おもいやりなくみえる(つまり私/私たちに不快な態度を取った)ひとは、ことの是非以前におもいやりのなさで非難に値する。こういう態度は、シミン的だ。

こうして、暗黙の相互理解の心情の共同体というフィクションによってつながれた多数派は、わたしたちはわかりあっているというサインをたがいに出し合うことで、相互に理解しあってるという幻想を確固たる物にし、それを暗黙のうちに前提にして、この前提に従わないものを、ことをあらだてるがゆえに排除する。

ひとは互いに根源的に違う。相互に暗黙の類似や理解が幻想できるのは、ひたすら、記号、符牒、つまりサインのおかげだ。サインの共通性が(たとえば隠語や言葉のスタイル)、中身の類似性や相互理解を想定させる。もちろん、実際は違う。

本当はそうごのそうした根源的な断絶を前提にして、星と星のコミュニケーションのように、普遍的なものをなかだちにした対話で葛藤は解決されるべきなのだが、実際にはそうではない。では葛藤はないのだろうか? 違う。葛藤はある。それはひとつには不可視にされている。だからそれをあらわにすると、あたかもそれを発生させたかのように思われてしまうのだ。つぎにそうしたあってはならない、あるはずのない葛藤は、対話以外の手段で処理されている。権力、権威によってである。簡単にいえば、「法」によってだ。それは公正なことのように見えるがじつはちがう。

対話を経由しない多数決主義、対話を経ない法による裁断は、暴力に他ならない。民主主義とは対話のことであって、多数決のことではない。対話なき多数決主義とは、議論を回避して現状に固執する方法なのである。