これはid:ueyamakzkさんのところひきこもりの話題関連。

以下は散漫なメモ。主眼はそのあとのリンク・コレクトのほうですよ。

「正規化」「正則化」というパラダイムを避けつつ、ケアというものを位置付ける論理をどう構築するか、ということが主題のひとつだろうと思う。

他方で、あることをできないひとに、それをしないことはすばらしい、という言説を差し向けるのは、おためごかしではないか、ともいえる。しかしまた、あることをしていないひとを、できないのだと名指すことで、しないのではなく、できなくしてしまう、という状況も考えうる。

あることが当人の選択の結果であるかどうか、ということは決定要因だろうか。また、選択の結果であるかどうか、というのは意図にかかわるのだろうか、それとも能力にかかわるのだろうか。これは意外なほど古典的な自由論とつながっている。

しかし、しないとできないとの区別はそれほど判然たるものか、という問いもある。

これらの問いは思弁的なものに過ぎないのだろうか。もちろん、具体状況での選択において問う必要というかたちであらわれないかぎりはそうなのだろう。

もうひとつ、指摘しておきたいのは、アンケートのように選択肢をあらかじめ構成することを特徴とする権力システムに対して、その選択肢のなかから、自由に好きなものを選べる自由が与えられているという側面をぬきだすことは、その選択肢の中からしか選べないという原ー不自由の隠蔽にならないかということだ。

じっさい、たとえばわたしが、水死するか撲殺されるか自由に選べる、というとき、これをもって自己決定というのはこっけいに聞こえる。もちろん、これはたしかにわたしにとって自己決定である。しかし、まず選択肢を選択させられている、ということも忘れてはならない。これほど極端でなくても、もちろん、選択肢をある程度、限定されているというのがつねの状況なのであるから、この意味では、じつは、この選択を自己決定と呼ぶことをこっけいと感じることは間違っているのかもしれない。たしかにこのような状況は非人称の歴史的制約性一般を考えるならつねにあることで、「IFを考える無益」ではないか、と反論されうる。しかし、選択肢段階での押し付けが社会的被制約性一般ではなく、特定システムや特定の主体の意図のもとに押し付けられたものであって可変的なものである場合は、ここでIFを考え、その制約での自由を不自由として言説化することには十分な意味があるだろう。

つまりこういうことだ。選択肢が、可変的でない場合、自然的、歴史的な制約である場合は、自分が、すでにあたえられた選択肢からしか選べない、というのは、もちろん、つねの状況であって、それに文句を言うのは不合理である。わたしはたとえば、生きるか死ぬかどちらかしか選べないが、このような場合、選択肢を押し付けられたと称するのは不条理だろうし意味もない。こうした意味で選択肢の所与性をまぬかれる無制約の自由などありえない。

しかし他方で、たとえばわたしが誘拐されて、殴るか、秘密を話すか自由に選べといわれたとき、この選択肢の中からの選択を自由な選択と呼ぶことには留保が必要である。なぜならば、わたしには、この選択肢の中から選択することを拒否する選択があるからだ。だが、わたしはそのことに気がつかない、としよう。わたしは明らかに選択を制限されていないとする。提示されていない選択肢に気が付いていないだけだ。このときのわたしの決定は自由な決定だろうか。

(この場合、それは誰にとって、という問いが重要だろう。行為主体にとって主観的な自由であるということと区別して、自由を論じることは可能か。むしろここで考察すべきは、不自由であるとはどういうことか、それは他によって決定されているということとどう違うのか)

別の論点。自己意識や意志としての「私」が身体を制御できない、たとえば神経症的な症候の場合、この「私」が「できない」というのは客観的事実であって、自称ではない。このような場合と、「できるけどやらない、やりたくない」場合は、明確に、ではなくてもそれなりに弁別可能だろうか。もしも、このような区別が可能であるならば、ケアの違いは正当化されうるものと思われる。

ここで、できない、と、しないの区別を、身体的困難と精神的困難で区分するのは不適切だと思われる。

そこで、問いとしてあげられるのは、主体状況に対する尊重、相対主義は、どこまで及ぶか、という点だろう。主体状況が、身体の支配能力や、統合的な意思形成能力を欠いている場合も、そうした尊重の範疇に入るか。なぜならば、このような場合「尊重」や「自由」というパラダイムが前提にしている「当人の意志」が未形成、あるいは確認不能だからだ。これはきわめて慎重な議論が必要なところだと思う。

また、実践的な論点を持ち出せば、むしろ重要なのは、そのような区分け、社会学的にいう「病者役割」の押し付けは、「誰が」行うのか、という点である。