恰も自らの残像のごとく

 それはそれで鬱なのである。鬱という字は、討つと書く。何を討つのか。討つといえば当然、主君の仇である。君、君たらざれば、臣、臣たらず。革命の秋はすでに近い。そういうわけで、私は近くの公園の毒々しい池を見下ろしてぼんやりする物体であった。毒々しいといっても工業排水が流れ込んでいるわけではなく、単に水がきれいで底が黒土で、天気が悪いので、水面が墨を流したように真っ黒なだけだ。美しい自然のほうがたいていの場合毒々しいものだ。人間のやることなど、まず一億年もたてば跡も残らない。恐竜さんに謝れ。謝れ!

 頭が痛いということは脳内に何かのインプラントが活動しているということに決まっているのだが、インプラントという言葉のハイカラさに恐れをなす明治生まれ万歳。あたまやまの故事を引くまでもなく、頭というのは一般論として、何かを植えるには最適の場所だ。電波を発信するインプラントがおくっているであろうメッセージの内容を想像するとわくわくとした興奮が起動して、言語学マニアのシャンポリオン的モジュールが引き出されてきかねない。

 しかし一体自分のような若輩の平素言行を星界の上つ方にリポートしてどうしようというのか、スェーデンボルグに訊いても分からないことは必定だと思うそばから頭痛が高まってきて、自分はかの地に残してきた舞姫の微笑みへの追懐に慙愧の念を禁じえないのだ。嗚呼、かの倫敦はベイカー・ストリート221番地にて、千度も忘れがたき永訣をいかに語ればよいのであろう。もとより、死者には時は流れぬのだ。

 いや、死者のときもまた消滅に向けて刻んでいくのだろうか。人体が化学的組成によって心理を作り上げるある種のビーカー錬金術であるとすれば、ヤク中的には魂のファーレンハイト発火点を見つけるのもさしたる難事ではあるまい。

 ぴちょん、と蛙が純粋な水に落ちた。溶けたに違いない。カスピアン王子がみつけたのは黄金の水であったが、ポーが描いたのはどんな水だったか記憶を爪びらかにしないが何か怖い水だったろう。水は万物の原形質なるがゆえに、すべては溶ける。溶ける。芭蕉の句の本義はそういうことだ。

 ++を討て!

 悪化するテロメラーゼの憂鬱。