にゃあ

最近になって思い出したけれどぼくは、「日常の中のふとした亀裂、ちょっとした非日常、それで主人公はいろいろ考えちゃったりするが、結局何事もなく終わる、そして、ペーソスとか、寒寒とした余韻とかを残す、そういう心理のふとした波瀾を描く」タイプの純文学の短編がしんそこ嫌いなのだった。実際、中学のときは純文学はそういうものだと誤解していたので純文学嫌いだったくらいだ。その後、そういうタイプの小説は、戦後の、日本の、それも短編小説の傾向に過ぎないことを知って純文学は好きになったのだが、やはり、こういう実存主義的というか、日常の断片を描いて心理のふとした波瀾を描く、それもきまって短編、という小説はつまらない。思うにそれは、この手の余韻だの、日常の中にふとしたきっかけで露呈する実存的断層やペーソスみたいなものって、千篇一律じゃないかというのがある。それはぼくがペーソスとか余韻とかが退屈なことと通じていて、純文学は本質的に冒険・恋愛小説であるべきだと思っており(思想的テーマがあるものはすべて本質的に冒険小説だ)、その意味でマダム・ボヴァリーもドン・キホーテ罪と罰も冒険・恋愛小説じゃないかと思うので、それはつまり、短編小説が苦手だということなのかもしれない。ああでもチェーホフ内田百輭安吾もほとんどが短編だけどきらいではないな。突き放すような短編が嫌いなのではなく、ある種、実存主義的なというか、そういう余韻めいたものが何処か説教くさく感じてしまうのだな。具体的なリアリズムというのが、ひどく物言いたげというか、語り手、あるいは主人公のモノローグによって提示される感慨という手法への嫌悪といおうか。うーん、なんというか、乱暴ないいかたをすればそういう小説って老人っぽいんだよな。ヘミングウェイが好きになれないというか、積極的に嫌いではないがどのへんがいいのかよくわからないというのも似た話かもしれない。といったって結局厳密な話じゃなくて、非常に恣意的な印象なので、やっぱり短編が苦手というだけのことなのかもしれない。といったって短編といってもエドガー・ポウなんて面白いのだからやはり単に長さの話ではないだろう。またウィットの聞いた、あるいはブラック・ユーモアのきいた結末・落ちを持つシニカルなコント・短編も苦手だがそれは別の理由で、またオー・ヘンリーみたいな感傷的な俗受けする話も嫌いだがそれも別の理由なので、やはり特定の形式というのが僕の頭にはあるらしいがそれは偏見なのか実在するのか。ともかく、主人公の心理の波瀾を短編で描くというのはやはりおおむね、読者としてはだから何だ、といいたくなるような、横光の言葉を借りれば主人公だけがものを考えているような一人合点の話になりがちで、それできまって実存主義的な形式的な社会的意味付けの相対化と、さむざむとした即物性の露呈といった話になるそのあたりが千篇一律と感じてしまうのかもしれないが、それはある種のリアリズムに共通の話なのかも知れずただそれが短編だと強調されるということだろうか。モノローグ小説だって意識の流れとかジョイスとかは面白いのでそれはやはり過剰なのと他人の意識が動的にかかわってくるからだろうと。あるいはこういうことかもしれないが、つまり、さんざん要所でモノローグをさしはさみつつ結末では、事実だけ書いて不意に終わらせるタイプのものが逆にここは「余韻を感じるところですよ!」的でわざとらしいというか。