http://d.hatena.ne.jp/jituzon/20040908
ああ、雑な言い方をしてしまったけれど、実存主義的なというのは、実存主義哲学を批判しているわけじゃなくて、ある種の雰囲気を表現するのに、サルトルマロニエへの嘔吐の感覚とか、一昔前の前衛が好んだみたいな無定形の不条理な、意味を剥奪されたモノの即物性みたいなもの(なんか、ちょっとまえの新潮文庫の表紙のイラストは妙に不定形なそういう前衛ふうのが多くて変な感じでした)、といったことを表現するのにそういったわけです。古井由吉ザミャーチンクンデラも好きな作家だし(トニ・モリスンは読んでいない)、大好きなヴァージニア・ウルフも、またジョイスエピファニーも実存的といえばいえるでしょうけれど、実存主義的な問題が出てくるのがどうこうということではなくて、たとえばそれまでまじめに過ごしてきて少しも逸脱したことのない人生を送ってきた老人が、ある日、ふとしたことから自分の人生はまったく無意味だったのではないかと気がついてちょっとした冒険をしてみるけれども失敗してまた日常に戻るんだけれども、モノローグでそこで何か余韻を残すような人生の真実みたいなもの、あるいはその不在が暗喩されて、即物的な、情景が描写されて終わりみたいな、なんというか、日常性からのふとした出来事をきっかけにした離脱と実存的な覚醒というか死の意識を、即物的なリアリズムによって描写して、というような種類の短編をいいたかったわけです。といってもすでに書いたようにこれはぼくの印象論で、そういう傾向が一般にあるかどうかもさだかではないので例もあげられないのだけれども、やはり日常を即物的に描いて、不条理とか、社会的な覆いの下にある人生の即物的な真実、無意味とか、どろどろした不定形の現実と、死すべき運命の自覚と、そこからみちびかれてくるある種仏教的な諦念というような特徴をもった短編というのは、けっこう比較的あるんじゃないかとは思うんですよ。で、結局、そうして死や生の本質的不条理や無意味、モノの不定形な不気味さ、他者の理解不可能性を前にして、索漠とした気持ちになり、「感慨」を抱く、という出来事を、劇的なプロットもなくメインの仕掛けとして持つ短編というのが、ぼくには退屈に感じられる、ということです。そうした心理の波瀾とか、あるいは読者の側がそういう索漠とした感慨を抱いて余韻を感じる効果を狙った小説があまりよいものだとは思えない、ということでもあります。

このへんはやはり自然主義とか私小説がつまらないということなのかもしれないけれども、たとえば徳田秋声の「仮装人物」はどこがいいのかわからず、ここで書いてるような意味で退屈なのだが長編の「あらくれ」はものすごく面白いわけで、藤村なんかもぜんぜんここで念頭においているような種類の退屈さはないから、自然主義がどうこうということでもないような気がする。近松秋江なんかは素敵だし。色っぽさの問題なんだろうか。石川淳的な饒舌さとか戯作の意識、本格小説とか、ロマンとか、そういうものが対立概念として僕のイメージにはあるんだけども、石川淳的に言えばむしろ精神の運動とかエネルギーが感じられるかどうか、ということなのかもしれない。太宰や芥川はたしかに虚無を描いて日常を題材にすることが多いんだけれども、感触はまったく違うわけで、それは虚構意識や言語意識の問題なのかも知れず、やはり人生派的なリアリズムがいけないというようなことなんだろうか。

うーんたとえば永井龍男とか網野菊とかはつまらなかったなあ。志賀直哉自体は意外と面白いのもあるんだけど。もっとも「小僧の神様」なんてぞっとする作品だが。別に私小説自然主義というわけじゃなくて、三人称でもいいし、むしろ戦後の作品に感じることのほうが多かったりするので自然主義ともいいにくい。堀田善衛開高健庄野潤三ぴんとこないのも多少似た事情の気がする。といってもこの三人は「広場の孤独」「玉、砕ける」「プールサイド小景」くらいしか読んでないけど。http://world-reader.ne.jp/books/kawabe-991106.html うーん、この書評が誉めてるみたいのが好きになれない、ということかもしれない。