ところで

なんか最近目にする極左とか極右とか左翼、右翼の言葉遣いがちょっと気になる。たとえばリベラル進歩主義者や自民党左派まで左翼と呼ぶのは、ちょっと言葉の本来の用法からして過剰なのではないか。いやカタカナのサヨクですよといわれても、どう違うのか全然具体的でないし。

左翼と呼ぶからには少なくとも革命と所有の制度の変革を掲げていなければ変な気がする。まあ、このへんは資本主義批判をどう果たすかによって意見は違うだろうけど、資本主義という枠組みを否定しないのであれば左翼とはかなりいいにくい。社会の基本的、経済的仕組みはかえないまま、個人の自由を拡大し、法的な制度を、民主主義、代議制を通じて改善させるという立場の人は、リベラル派なのであって、アメリカの民主党左派はまさしくそういうものだろう。これを極端な立場として左翼や極左と同一視してもいい事なんか全然ないと思う。

というか、その分、保守派についてもさして極端でないものまで右翼、極右とみなしてしまうから、(たとえば復古派と保守派は本質において相違するものが多分にあるはずだし。たとえば理想主義的モラル回復派と現実主義的現状保守派は、あくまでも左派を相手にしたときだけ同盟しているに過ぎないだろう)中道に配分する政治勢力が、ものすごく狭い範囲の、そしておおむね現状維持的立場に限られてしまうことになって、政治的なものの観察が偏るのではないかと思う。

極左とか極右というのはイスラム原理主義者と同じで、暴力的地下活動をしていたり、そういう勢力と直接同盟関係にあったり、すくなくとも、暴力的で直接的な活動を肯定し、体制崩壊のリスクを意に介さないとか、現体制の全否定とか、そういう程度のことは必要だろう。この極端さの軸というのはあくまでもその立場を肯定するかどうか、ということは別で、立場の多様性の可能性のひろがりをきちんと認識するということなのではないか。

いや、単純に相対的勢力図として中道が右に移動し、しかもその中道が右側も切り落として、小市民的な意味で、右という意味ではなく現状維持的という意味で保守化しているだけだということはわかるのだけど、それって政治的立場の画一化でしかないんじゃないか、そのせいで「表舞台」ではぬるいどうでもいい細かい差異が重大視され、「表舞台」からとおざけられ「過激」のレッテルを貼られた政治思想は主張の通路を失って、実際に、行動の手段、内容の意味で過激化するということがあるんじゃないかと思う。

なんか少しでも極端に見える立場はテロリストと同じカテゴリーにくくりだして同質なものだけが残されるという過程が進行してるんじゃないだろうか。

もちろん、穏健なリベラルがもっと広がりをもつことが重要だというのは確かな話で、極端な立場ばかりさかえたって別にいい事はない。しかし中道的なリベラルが同質的で、数においてたとえ多くても内的に多様性が欠けており、対立者としての極端な立場ときちんと対決しないでそれをただ思考の上で見えなくしてしまっているとすれば、それはむしろ、リベラルな中道派がかつてなく弱体化している状態である、というべきなんじゃないだろうか。

追記

うーん、むずかしい。相対的な位置の問題だ、というならそれはそうで、左派という言葉なら普通に使うわけだし。そこが保守派からは左翼は左翼と名乗らない、リベラルとか左派とか名乗る、といわれるところだけど、でも実際、別の概念だからなあ。たしかに、マイナスイメージを回避するという政治的パフォーマンスの意味もなくはない。だが、それがポルポトと自己の立場を連帯させることを短絡的に効果として持つなら、避けるべきというのも、別に単に政略的振る舞いとはいえないだろう。

フランス革命までもどってしまえば、自由主義者ジャコバンはあきらかに左翼だけど、しかしそういえばジャコバンはもともと中道だから権力を握ったんだよなあ、と関係ないことを。言葉の意味が錯綜してるんだよなあ。このへんは、やはりおしつけられたアイデンティティのまえでの戸惑いという気もする。ラディカル・デモクラシーとでもいっておけばいいのか。

しかし左翼という言葉に社会主義者をさす固有名詞的な意味が今なお色濃くあるのは確かで、また、それとは別に、イデオロギー対立の重要性は終わったといわれながら、左右の軸が、その軸がどういう基準でひかれているのかは、錯綜していて明確ではないのだけれど、政治勢力の分類としてまったく有効なようにみえる、つまり立場が左右で割り切れるというわけではなく、政治的ブロックが左右で割り切れるように見える、というのはどういうことなんだろう、とも思ったりする。このへんはアイデンティティの政治と関係があるんだろうか。