メディア・リテラシー

へいぜい、メディア・リテラシー話のお決まりの、「これからはますます個人にうそや事実を見抜く能力が必要とされる」というのを聞くたび、自分は、はなはだ胡散な印象を禁じえない。

無理な要求であると思うからだ。一方では、そういう能力を体系化し、養成する教育制度というものを提案することなしに、そういう警句を吐いても意味などない。泥棒を道徳意識の喚起で解決しようとするようなものである。また、実際にメディアが信用を失えば、誰でもいわれるまでもなくメディアのいうことに慎重になるだろう。他方では、そうした訓練が一定の意味があるとしても、ひとは基本的にだまされるものであり、人間はだまされるものだということを前提にして、メディア状況の問題をかんがえるべきであって、人間の条件の方を仮想的に変更することで解決しようというのは筋違いだ。十分な判断材料のない場合、簡単に信じてしまうと同じくらい、簡単に否定してしまうのも間違っている。

もうひとつ、問題は、メディア・リテラシーの言説はむしろ、メディア・テキストをご都合主義的に信じたり信じなかったりする、というか「解釈」する言い訳にむしろ使われている、ということがある。たしかにメディア・リテラシーということは、メディアの与えるテキストを素直に受け取ることなく、一定の批判的な「解釈」をしたうえで採用せよ、ということであり、このこと自体は、まさしくその大雑把さゆえに文句なく正しい。しかし、同時にマス・メディアは個人が生活世界の外部と交通する場面であって、その情報を、解釈の名のもとに恣意的に否定することができたら、外部から簡単に閉鎖的な信念を防衛することができてしまう。

問題は、「メディア・リテラシーが必要とされる」とか、「うそをうそと見抜けないやつ」を馬鹿にする言説には、誰でもリテラシーの有無にかかわらず本質的にだまされうる存在であるという認識がかけているし、メディア・リテラシーが、メディア情報の恣意的な再解釈にならないための歯止めになりうる部分が欠けている。そうした歯止めがないかぎり「わかってるやつ」と「わかってないやつ」という符牒によって内外を分ける言説としてしか機能しないのではないか。

メディア・リテラシーにはひとはだまされるものだという意味で本来的限界があるし、メディアの言説の受容においてテキスト批判や解釈がご都合主義的に用いられることで、自己の信念に情報が従属し、選択的にしか受け入れられない、ということにもなりやすい、という問題点がある。一方ではだから、メディア・リテラシーが必要になるような現代のメディア状況をメディア・リテラシーの普及啓発によって解決することはできないし、他方では、メディア・リテラシーについて、恣意的で選択的なメディア言説の再解釈を抑制する原理が強調されなければならないのである。

思うに、こうした、メタ批判によって外部から与えられる情報と距離をとるという傾向はもっと一般的にいえるのであって、詭弁のガイドラインのようなものもそうだろう。こうしたメタ批判は、その適用において恣意的で選択的になることがないための抑制の原理がない限り、いつでも、外部情報の内容を、具体的に検証することなく拒絶する方法論に堕してしまう。もちろん、情報の洪水の中で、いちいち検証不可能であるとき、前処理のふるいとしてメタ批判は一定の意味がないわけではないが、それが、過剰に前に出てしまったり、本来的な検証よりも優越してしまったら、問題のほうが大きい。