同化

文化的な同化の強制は、強制された人々の自己の本質的な部分を禁止するという意味で非人間的な政策である、ということ、そして、文化がつねに生成過程にあるということを見ていないために、逆説的に双方の文化を硬直させるという二点からいって、支持はできない。しかし、社会政策上から言って、ともに住み暮らすための社会的な振る舞いのプロトコルはある程度、相互に予期可能でなければならないというのは、動かない。解決策として双方で互いの文化的プロトコルをよく知るということも重要だが、やはり、非常に慎重にかつ限定された範囲内で、共有の文化、社会的プロトコルをもまた構築しなければならないし、それが必然的に多数派のプロトコルが基礎となって構築されるものになるだろう、ということも避けられない。これをしも同化として非難してしまうと、かえって文化的隔離が社会的隔離となって深刻な事態を生む。だから、この、エスニックな自己規定を侵犯せず、あくまでも社会的にともにすみ暮らすという現実的な必要性から見て最低限という強い慎重さを内在させた、共有文化層の「範囲」を、いかにして、おおざっぱな隔離主義的同化批判と、温情主義的同化主義の双方に抗して定義するか、ということが問題なのではないだろうか。