道徳? 道徳!

via http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20050216#1108577072
via http://blog.goo.ne.jp/wakainkyo/e/66ea276c643c40519c12ebb81821b7db
http://www.janjan.jp/media/0502/0502133557/1.php

JANJANの記事は愚劣の一言。
何だよ、道徳的に高い位置にあるとか、ニューエイジとか持ち出して馬鹿ではないのか。そういう意味で朝日のお手盛り投稿レベル。

しかし朝日については保守派の皆さんは心配することはない。朝日新聞NHKも基本的には左派(というか、そのバージョンとしての朝日新聞社民党的主張)が建前の地位を保っているからああいう言論をしているに過ぎない。基本的にあの新聞は体制におもねっているに過ぎないから、保守派の皆さんが勝ちを占めれば、立派に皆さんの御用機関として役立ってくれるはずである。人気取りのための政治的言論では読売とは年季が違う。

で、道徳だが。政治が道徳の名で語られることをid:Soredaさんのところのコメント欄の議論は肯定しているのやら批判しているのやらわかり難い。最近、id:mojimojiさんの議論を見ていると、たしかに、かつて東浩紀がかたったような責任の無限の拡大という危険もふくめてあやういところがあるんじゃないかとも思える。レヴィナス的な無限責任や「正義論」、ベンヤミン的な神話的、法創造暴力の視点には、きちんと批判的な歯止めが必要なのではないか。

たしかに左の政治的主張自然法的な正義の観念の名において成されるため、ときには非常に「道徳的」だ。もちろん、ここでは共同体の規範という意味での道徳とは区別して倫理といったほうがいいようなものではあるが。しかしいちおう注意しておくべきなのは、右の主張だって、ことあげしないだけで、「まずなによりも帰属している共同体の利益にかなうことが道徳的によい」というそれ以上はさかのぼれない超越的、道徳的な主張・決断が背景にある。また実際に、現実主義的な議論として、道徳は避けられないし無視すれば裏口からはいってくるという妥当で穏当な意見をしているかと思えば、そこから一足飛びに、だから道徳を積極的に強制すべきだ、という道徳的議論になってしまったりもする場合もある。

たしかに個人の倫理的選択は共同体の在来の規範に従う必要はないが、そのような規範的道徳との対決の形でしか形成されえないものだ。倫理はゼロから作ることはできない。しかしまた、規範としての道徳が、いまここで更新されつつあるという緊張感の中での、裏づけを持たない倫理的な個々の選択というものがなければ、道徳に盲従することは、それ自体非倫理的なことだ。そして、このような、規範が倫理的な個別の選択において試されるフェーズにおいて、正義の概念は意味を持つ。そのかぎりで、正義は否定的概念なのだ。

いいかえれば、自然法的な正義は「すでにある」規範の機能不全のサインを取り扱うための概念であるといってもいい。だから、正義の概念自体は、正義を呼び求めている傷、規範の機能不全が、どのように解決されるべきかは、それ自体は「語らない」。

そこで、だから正義の名のもとに語る人は危険なのだ、と僕は思う。他人にとって、という意味でも、自分にとって、という意味でも。正義は、それ自体は空白なのだから。

あ、あとどうでもいいけどいくら最悪の全体主義国家でも別の国を壊滅させようとか堕落させようとしているだなんてユダヤ陰謀論レベル。もしかすると朝日や社共、一部のNGO、などの団体にはそういうことは実際いえるのかもしれないしそうでないのかもしれないが、左派がみんなそうであるとか、左派の多数派がそうであるとか、そういう陰謀論的左翼観を克服しない限り駄目駄目だ。

で、思うのは、まず、特定の道徳的な規範の内容を、それが自分がたまたま属している共同体の規範だったからとして絶対化するのは、ある種のニヒリズムだと思う。そして、いちおう、その相対性を認めつつ、功利主義的理由から、その規範を「信じているかのように」振舞うべきであり、そのための、強制力を含む「訓育」は正当化される、という思想はますます、シニカルだ。その場合、しかしまさにそのあなたは、そのそれぞれの規範の内容を、共同体という後ろ盾なしに、正しいと信じられるのか、そしてそれは何故か、という問い、また、なにが倫理的に正しいのか、という問いを、スルーしているからだ。

他方で、規範の外にあり、それに異議を唱える正義を後ろ盾にすることで、左派にはある堕落が常に可能性として付きまとう。正義は、その概念的本質から言って、積極的な内容はなく、それゆえに代弁することなどできないはずなのに、正義を代弁することで、無意識のうちに、正義ではなく道徳を、つまり自己の規範を押し付けてしまうということだ。しかも、そうはいいつつも正義は規範の外にあるから、それが実は自分の対抗的規範にすぎないものに変貌してしまっていても、明文化されてないだけにエスカレーションしやすい。あるいはそれ自体内容をもたないがゆえに恣意的な内容が代入可能ですらあるだろうし、内容がないゆえに権威をもつということさえある。