ネタとかマジレスとか野暮とか

http://d.hatena.ne.jp/otsune/20050604/p2

バトルではありません。すくなくてもここではまだ意見の対立なんてない。ぼくは知りたいから尋ねただけだし、かれは答えたくなければ断ればそれですむだけ。言葉が足りないのはそれ自体は別に悪いことではない。しかし、言葉が足りないこと自体に何かいわくありげな意味を見出そうとするのは間違っている。言挙げすることによって表現しようとしたことが失われたりはしない。わかりやすい知的な整理でやめるから何か違うということになるのであって、その違うということを大切にしてさらに続ければ、少なくとも、何でないかはわかる。それは、最初漠然とイメージでこんな感じかなあと思っている時点よりも、何倍もまし。もちろんひとは議論する義務はない。ただ、「無粋なマジレス」はことを明らかにする効果がないというのは間違い、ということ。ついでにいえば、芸事ならともかく、こういう問題で無粋という表現を使うのは、全然似つかわしくない。

で、以下はこの件についてならやや過剰反応だが、普段から考えていることでもあり、この件によってあらためて考えたことなので書く。かならずしもotsuneさんのことではない。

無粋だ、と自分の勝手に決めた内輪の暗黙の了解を明示的にしようとすることとみなして、抑圧し嫌がるのはくだらない。あえて口にしないことによってはじめて面白いものなんてない。物事は追求したりやってみたりしてこそ面白いのであって、やらない、論じない、口にしないからこそ、何かありそうというような形で、漠然とイメージで面白そうに見えるというのは、くだらない蜃気楼というべきで、内輪受けというのです。そういう内輪の察しあい、「わかってるぼくたち」の「訳知り」によって成り立っているような、いわくありげな面白さなど、積極的に完膚なきまでにぶち壊すべきです。そういうものは本質的に退屈で、ちっとも面白くない。そしてなおわるいことに、「わかってる自分たち」と「野暮でわかってないやつら」という差別的な線引きとしてしか機能しない。

(追記 逆リンク! http://www2.diary.ne.jp/user/160667/)

いいづらいこと、表現の問題ではなく、問題の事柄の性質そのものが微妙なもの、言葉でくみつくせないようなものは、言葉にすることによってつまらなくなったりしない。言葉にしようという努力を経てこそ、その面白さが、訳知りの想像ではなく、そしてしばしばそれを超えて現実にあらわになる。そして、すくなくとも、言葉にしようとすることによって、それが何でないかはわかる。そのことは、最初の漠然としたイメージにとって明らかにプラス。理に落ちた回答に途中に妥協するからつまらなくなるのであって、それはつまり問いをやめることこそが問題なのであり、問うことが問題なのでは全くない。
マジレスが問題なのはネタだと理解できない読解力が問題になるとき。ねただと理解したうえで、ネタであることを踏まえ、そういうネタをすることを主題にしたマジレスは問題ではない。そういう問いは、ネタ自体を損なうことはない。むしろ、まさに内容にきちんと咬んでいるのだから、ネタをより豊かにするものというべき。訳知りな、既存の分類に落とし込むような、マジに向かい合わない消費がいちばん退屈でつまらない。どうせ乗るのなら、決して半端に乗ってはいけないし、自分自身に対してさえ、これは敢えてだから本気じゃない、というようなエクスキューズをするべきではない。そうやって、半分しか乗らないことこそ、物事を訳知りでつまらなくしてきた。
この件については別に今回のことにかかわらず、ネタというエクスキューズがいかに悪質で、ユーモアやアイロニーが、いかに単なる表現や韜晦の問題に堕しているかということ、八十年代的相対主義、ネタ至上主義がいかに駄目かという話として考えていた。
アイロニーには表現だけのものと内容にかかわるものがある。表現だけのものは、結局言いたいことはあらかじめ決まっていて、直接いおうとおもえばいえる。こういうアイロニーは実につまらない。内容にかかわるアイロニーとは、別に難しい話では全然ない。歴史のアイロニーというようなときもそうだが、いおうとしている内容そのものが、表現から跳ね返ってきたものによって、ゆらぐ、多重化する。このとき、もはや、言いたいことはアイロニーの形でしか言えない。そういう表現で言うことによって、言おうとしている内容そのものに深い次元が生じて、一面的ではなくなる。つまりひとつの表現に声が二つになる。この場合、事柄にアイロニーがかかわっているので、当人が意識的にやってるかどうかは問題の核心ではない。表現だけのアイロニーでは、本当の意味と表面的な意味との間には明確な区別があり、「本当の意味」が絶対的に本当の意味だ。つまり、独断的アイロニー、独断的ユーモア、アイロニーやユーモアは道具に過ぎない。しかし内容にかかわる本当のアイロニーでは、表面の意味ともうひとつの意味は、どちらも真実なのであって、二つの一見して矛盾する真実がひとつの事柄に備わっているという、事柄の複雑さを表現する。
ネタがエクスキューズになると思っている人の多くは、敢えてやっているとか、アイロニーだとか、ユーモアだとか、ネタだとか、どれも、表現の問題だけにとどまっていて、そうでなければいえないことをいおうとしているわけではない。単に婉曲に言ったり、語気を和らげようとしたりしているだけで、そんな社交的機能を果たすだけのアイロニーやユーモアなんてしんから退屈だ。だいたい、暗黙の了解によって、本当はどう読むべきか一義的にきまっているならば、それが表面上、別のことを語っているとしても、そのことは、全然、形式的にすら、言い訳になるはずがない。それを言い訳になると思っているのは、内輪の約束事を絶対視する立場からだけだろう。
ネタの内部で、これはネタですといってしまうのは、言葉のレイヤーが違ってしまうから設定と矛盾するという問題がある。だからそれをやるとつまらなくなることがあるというのは理由がある。しかし事後的に読む側、受ける側がそれがネタであることを明示的に口にしてはいけない、それは野暮だというのはありえない内輪の、いかにも半可通なルールだろう。そうやってあからさまに語ることで何が失われるというのか、わたしにはまるで理解できない。単に、暗黙のうちにものごとがうまく進んでいくという、いわば一体感や洗練の感覚のような、ネタや芸事そのものとは関係のない、内輪的な快感にかかわっているだけではないのか。そうであれば、それにどれだけの意味があるというのだろうか。

補記。純粋な読んで面白いことを目指している文章という意味でのネタと、ネタ的な部分を含みつつ主張はそれはそれでたしかに存在する文章では当然区別が必要だと思う。たとえば美しいかどうかで判断されるべき絵画を正しいかどうかで判断するのはばかげている。しかしぼくにはこの区別は、マジレスかそうでないかの区別とは微妙に違うように見える。つまり、ここまでぼくが書いてきたのは、基本は何かを主張することが目的の文章で、その表現方法がネタの部分を含むもので、何かを主張することを全然目指していないものは想定していなかった。それは真性引き篭りさんのところの話の流れがあったということもある。以上、念の為。