コールアンドレスポンス 一心不乱のマジレスを! 情け容赦ないマジレスを!

タイトルはネタです。とにかくネタだと書いておけばいいんでしょう。この行について追記あり

http://d.hatena.ne.jp/bmp/20050606/1118026504
どうでもいいけど役不足じゃなくて力不足だと思う。
追記。ああ。ごめん、訂正させてしまった。そういうつもりじゃなかったんだけど、……ま、いいか)

それはともかくこの件で真性引き篭もりさんと徳保さんの件についていうと、ぼくは真性引き篭もりさんはすごいよなあ、うまいよなあ、ネタってこういうんだよなあ、と思っているし、徳保さんは相変わらず相手の文章が読めていなさ過ぎる、ひでえ誤読で、不毛の限りだ、と思っています。

まじめとふまじめというような、ぼくがまったく取っていない枠組みに嵌めようという語りが見られるので、ここははっきりさせておきたい。

徳保さんの「マジレス」が不毛だったのはネタであることを理解できずに、しかも相手の文章の意図を読み違えているからで、かならずしも、ネタにネタで返さなかったことが原因ではありません。その意味では、「マジレス」だったから困ったもんだったのではなく、「レス違い」だったからです。そしてぼくは後だしでこういっているのではなく、最初の文章から、そういっています。真面目と不真面目という対立図式で僕は考えていない。

で、もうひとつ、http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20050605 のように、bmpさんとぼくが喧嘩というか対立しているというふうに見えてしまったなら、これは不本意というか、ぼくの非常に不徳のいたすところ、未熟なところだったと思います。また、対立図式自体が不快感を与えてしまったとしたら、申し訳ないと思います。もちろん、他人ですから、bmpさんがどう受け取っていらっしゃるかはわかりませんが、ぼくが質問したとき、そこに批判や責めるニュアンスはいっさいなかった。突っ込むと面白そうな話で、意味がよく取れなかったから、質問したんです。多少、詰問的なニュアンスが文章の勢いに含まれてしまったことに気がついて、そのときのコメントそのもので、そうとられないように注記もしています。そして、その後の一連の反論は、すべてbmpさんではなくotsuneさんをのみ意識したものです。

この点は、どうやらやっとわかりかけてきた、otsuneさんがどういう誤解をしているか、という点にもかかわってきます。


http://d.hatena.ne.jp/otsune/20050604/p2 にある、

たとえばアメリカのスタンダップコメディは揶揄だとか障碍者差別だとか人種差別の宝庫ですが。人権派団体がアメリカに乗り込んでいって「あんな差別的な文化があるなんて信じられない」とアピールをしだしたら、不思議な顔をされてしまうと私は思います。(ターゲットとなったコメディアンは不思議な顔じゃなくて、もっと悪ふざけしてその人権派団体を弄ってネタにすると思いますが)

だから「スタンダップコメディという悪趣味なものがあることをハッキリさせるのは○○だなぁ」という感想が浮かんだ。

という記述、ここから、かれがどういう誤読をしているか、かなり見えてきます。つまり、otsuneさんは、ぼくが、bmpさんを非難したと受け取ったらしい。だから、はっきりさせる、という言葉の受け取り方が、変な風になっています。

わたしがいうはっきりさせる、というのは、この例で言えば、そのスタンダップコメディのひとに、「それって本気でそう思っているんですか」あるいは「これってネタですか」ときいて確かめることです。あるいは観客が、ネタを聞いたとき、そこでの差別的発言をどう受け取っているか、そのとき、それを普通にそれをきいたときとどういう違う反応をしているか、そのときの「お約束」は何か、といったことを明らかにすることが、「はっきりさせる」の意味です。といって、この例で言うと、あたかも、詰問する目的でそういうことを明らかにしているように見えるかもしれませんが、それは、もとの例が、詰問するシーンだからです。いいですか、ぼくは約束事を明示的にすることをはっきりさせること、といっているので、詰問したり非難したりすることなんか、ぜんぜん、その意味には含まれていないのです。

むしろ別の物語を作るなら、はっきりさせること、というのは、うまれてはじめてスタンダップコメディをみたひとが、その言葉をどう受け取ったらいいか分からなくて、隣の人に、ええと、これは本気じゃないんですよね、と聞くこと、そしてそれに、ええ、これはネタなんですよ、そういうことをいうひとを演じているんです、と答えること、それが、はっきりさせることのぼくのいう意味です。

「差別的なネタがあることをはっきりとアピールする」ことなどぜんぜん関係ないどころか、ぼくの立場から言って、それこそ忌むべき態度です。私の言う「はっきりさせる」立場から言えば、そういう馬鹿な原理主義者に対しては、「いやこのネタが流通しているコンテキストからいって、受け手はネタであるとして受け取っており、あなたがたがいうような、差別的効果は生じない、だからあなたがたは間違っている」というでしょう。

そしてまたこの例のような、非難や弁明の文脈は、otsuneさんが持ち込んだもので、約束事を露にすること、つまり、ぼくのいう「はっきりさせること」、「口に出すこと」の意味にはそうした詰問の文脈はありません。弁明のためにコンテキストやルールを明らかにせよということでは全然ない。そうでなくて、むしろ、楽しむために、あるいはそのコンテキストに入り込むためにもまた、ルールやお約束を把握することは必要でしょう。そこで、なぜ、それを暗黙のままに「察する」ことが抑圧的に強いられなければならないのか。

ネタが、いいですか、ベタに受け取られないためには、ルールがある。空気を読めということがある。そのルールがどういうものか、口に出すこと、露に出すことを、忌む根拠があるのか、とぼくは問うているんです。了解を、明示的な了解にしてはならなくて、暗黙の了解のまま流通させなきゃいけない理由は何か、と問うているんです。ここでotsuneさんが想定しているような、不寛容でけち臭い検察官的態度など、ぼくは微塵も賛成できないし、主張してもいない。

で、この巧妙なotsuneさんのつくりあげた物語に http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050606 さんなんかも乗っかってしまっているように見えるのですが、そこで巧妙なのは、
http://4360.hito.thebbs.jp/Madam/1117390780 のような、都合のいい例をもってきて、ぼくの意見とこのひとの意見が同一線上にあるかのように示唆したことです。これは非常にうまいやりかたでした。しかし率直に言ってこの人の意見は窮屈だし、真面目ということを過大評価していると思います。むしろ、真面目と不真面目という軸とネタとベタという軸は対立しないわけで、ときにはマジにネタレスすべきなのです。そういう意味で、真性引き篭もりさんの真摯さは疑えないし、同時にネタとしての完成度のたかさも疑えない、これは矛盾するものではないわけです。

もとの話に戻りましょう。たとえば、ある作家がファンタジーでナンタラカンタラ王国というのを出したとします。で、こんなの適当にでっち上げたもので、設定なんかない、ていうか名前の雰囲気で出しただけだとします。この王国がどういう国であるか聞くのは不毛でしょうか?

もちろん、不毛ではありません。その場ででっち上げて答えればいい。というか、それで作品世界が豊かになるくらいのものでしょう。多くの物語設定は実際、そうしたファンとのコミュニケーションで発展しました。ここで訳知り顔に、あれは裏事情でこれこれこういうことでさ、だからあんま突っ込むなよ、というのが、実は一番だめな、通ぶった、悪い意味で「大人」な態度というものです。こういう態度こそ、物事を根本的につまらなくしてきたと、ぼくは考えています。議論というのは、それ自体思考のプロセスであって、あらかじめ答えのあることを、自分自身に対して正直に答えるのがただしいというのは偏狭な考えです。アクションとリアクションというのは、それ自体、リアルタイムに、相手の考えを引き出すためのものです。交渉したり責任を問うためだけのものではありません。

もちろん、ここで、設定なんかないんだろう、とか、この設定とこの設定は矛盾している、どういうことだ! と非難したら、不毛のきわみです。当たり前です。それがたとえばスタンダップコメディの例が想定しているような、馬鹿らしい無理解の、悪い意味でのマジレス、読解力を欠いた反応というものです。しかし、ぼくは、そういう反応を擁護しているわけでは、一貫して、ない。

まとめていえば、ぼくは、空気読め圧力、察しあいゲーム、訳知り抑圧を批判しているのです。

空気読め圧力を批判しているからといって、誤解してほしくないのは、物事には約束事やコードがあって成り立つものが大半で、それを無視した反応やアクションを肯定しているわけではない、ということです。そういう誤解をしてしまうと、スタンダップコメディの例のような誤解をぼくの意見に対してすることになる。

空気というかコードや約束事を知ることは必要です。そしてそれを無視した反応が、不適切な反応であるとみなされるのは、多くの場合、正当でしょう。わたしが批判しているのは、それが暗黙のうちになされなければいけない、口に出して質問せずに察しなければいけない、という抑圧的なメタ・ルールです。

聞けばいいし、聞かれたら答えればいいんですよ。なぜそんな簡単なことが、これほどまでに忌避されるのか、その理由が私には了解できない。なるほど、いちいちのことに弁明を求められるなら、それは面倒だ、やってられない、というのならわかる。しかし、すでに注意したとおり、わたしが述べているのは、そうしたこまごまとした非難や弁明を正当化する文脈ではない。そういう個別のことではなく、どういうふうに了解すべきかのルール、約束事を明示することです。これなら、一回ですむし、しかも、かならずしもぼくは絶対に明示すべきとかいってるのじゃなくて、聞かれたら答えればいいし、聞く行為、約束事をあらわに対象化する行為を馬鹿にしたり下に見たりすべきじゃないということ、そういう優越意識からなるのが、察しあい圧力、訳知り抑圧、空気読めゲームだ、ということをいっているだけです。

だから、ネタについていうと、そうしたら面白くなくなるから、というこのルールの根拠付けが想定できるから、それを検討したわけです。はたして、そうだろうか? と。

それに対して、わたしは、そこで損なわれるのは、内輪の、なめらかに物事が進むという快感でしかなくて、ネタの本質的面白さは損なわれはしない。たしかに、ネタを発したほうは醒めるかもしれないが、受け手は、それで醒めたりはしない。約束事をあらわに明示することを忌避することの利益は、それを抑圧することの利益に比べて、はるかに少ない、と主張したわけです。

さて、ここで当然、でもネタバラシ(ここでは、これが面白いのはね、というような解釈・説明の意味)はつまらないではないか、という疑問がわくかもしれない。しかし考えてみれば、ネタバラシそれ自体は、ネタとしてみたときつまらない。当たり前で、ネタバラシはネタではないから。しかし、ネタバラシを聞いた後、もう一度そのネタを見たとしよう。それでこのネタの魅力が損なわれるだろうか。これは、すでに前回述べたこととつながるけれども、その理に落ちた解釈がすべてだと鵜呑みにしてしまえば、つまらなくなることはありえる。しかしそれは、理に落ちた解釈をしたことによってではなく、その解釈をさらに問うという終わりのないプロセスを途中で妥協してわかった風な意識を持ってしまうことが原因なのであって、かならずしも、言語化したこと自体がネタをスポイルしたわけではない。むしろそうすることによって、あたらしい面白さが見つかることだってある。落語の古典ネタとの向かい合いなんかは、たとえばそういうものでしょう。

さて、ここでほかの場合も考察してみると、情緒的な揉め事、感情的にもつれた事柄の場合、口に出さない、明示しないほうがうまくいく場合もあるでしょう。これは否定しない。しかし、その場合でもたいていの共同体は、口にしないことにした理由すら口にしない。それはどうなんだ、と思うわけです。感情的なもつれなら言葉にしないほうがいい場合もあるのはわかるが、だったら、口に出して、「揉めるから触れないようにしよう」といえばいいじゃないか。それすらも口に出すことを禁止する、この徹底した空気読めゲームに、確たるそうすべき理由があるとは僕には思えない。そしてそもそも、そんなふうに抑圧する権限はどこから来たんだよ、ということです。

と、いってもこれはいろいろな場合で違いそうだから、とりあえず、当初の本来の文脈の、ネタな部分を含みつつ、基本的には何か主張したいことがある文章、に限定しておいたほうが安全だろうなあ。また、芸人のネタについてもぼくから言及した文脈ではないけれども、当てはまる、といってもいちおうはいいだろう。もちろん、それ以外にも、留保つきではあれ原則的にはあてはまるとかんがえてはいるのだけれど、個別の留保についてちゃんと考えると大変なので、過度の一般化はしないでおく。