利益

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050818#p1
ぜんぜん関係ない話ですが、利害とか幸福というのは面白いもので、功利主義者とか、批判理論的な見方だと、意見は利害に左右されるということになっているのだけれども、何が自分の利益・幸福であるか、というのは、そのひとの意見なわけで、ここにめでたく、形式的にはウロボロスができてしまうように見える。功利主義がむかしから不完全だと思うのはこの点。もちろん、これはスタティックに見た場合の矛盾であって、ダイナミックに時間の契機をいれれば、利害関心と意見とは相互に決定しあっているのだ、と「弁証法」をもちだせばいいわけですが。幸福の概念というのはまさにそういうもので、幸福感というのは実在する現実だと思うけれども、幸福というものが自体的にあるかどうかというと微妙すぎる話だと思う。社会的に安定的に幸福感を味わうことができる環境とかいうといちおう、だいたいイメージしているものと一致しそうだけれども、ここに主観の契機を入れてしまうと、でもふつうみんな幸福というと、客観的な状態を意味するよなあ、と思ってしまう。つまり、幸福という言葉を抵抗なく使えるということは、客観的に幸福とされている状態についての社会的価値観と、自身が幸福感を覚える状態との間に齟齬がない、ということなんだよな。だから、そこを隠蔽するために、とりあえずお金があれば、幸福、ということになる。お金を問題にしている限り、それで具体的にどういう状態をもたらすかについての差異は隠蔽されるから。だからお金か幸福かという対立は実は対立ではなく、ひとつの隠蔽作用なのだ、といっていい。

追記。ということは、幸福もまた、ある種の貨幣なのだ。