スペルシンガー

スペルシンガー (ハヤカワ文庫FT―スペルシンガー・サーガ)

スペルシンガー (ハヤカワ文庫FT―スペルシンガー・サーガ)

シリーズ読み中。
エイリアンのノベライズのひとだとは解説読むまで気がつかなかった。
あとラッカーの「ウェットウェア」を読む予定なのだが、「ソフトウェア」をすっかり内容忘れている。
「あいどる」の三部作はガイナックスがアニメ化するとよいのではないか。
あと「素直クール」って何だ。

白鯨 ジョイス

http://d.hatena.ne.jp/ishmael/20051215/1134668463
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20051215#p2
http://mijulog.blog3.fc2.com/blog-entry-379.html

なんか星回り的にジョイスメルヴィルを読まないとなあ、という気がしてきた。ジョイスはじつはろくに読んでいないんだよなあ。

「白鯨」のことを考えると荘子の大魚を思い出してしまう。極北の、世界をはらんだ、レヴィアタンならぬ大魚のイメージ。

日本語ドメインの世界は中立的でないgoogle

http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2005/12/15/10238.html

なんだか、単純に識別子として覚えやすいというのではなく、まるで検索サービスを志向しているように見える、というのは誤解だろうか。

たとえば、日本語ドメインが一般化し、あるテーマについてまずドメイン名でさがすのが習慣になり、そのあとで更に、という場合に検索サイトが利用される、という、おそらくは実現しない世界を考えると、これって、結局、レジストリがあらたな特権的な検索サイトになる、ということでしかない。これは日本語ドメインが、というより、本質的にはアドレスバードメイン名を検索代わりに使用することを推奨することについて、というべきかもしれないけど。

しかもこのあらたな「検索サービス」はgoogleに対して二つの点で退化している。まず、この「検索サービス」の検索ランクはページランクのような、利用者の利便性を考慮したプロセスによって決定されるのではなく、ドメイン名の入手という、そのデータの内容そのものとは無縁のプロセスで決定される。これは、企業側にはSEOの不確定性から解放されるという点でメリットであり、だから、つねに日本語ドメインは訴求力を持ち続けているのだろうけれど、これはまさしくユーザーにとってはデメリットだ。つぎにもちろん、検索サービスとしてはドメイン名はオルタナティブな候補を提示しない。

こうなると、「検索キーとウェブ上で最初に見つかるプライマリーなリソースの対応」が特定の組織によって、あるいは内容からはなれたビジネスの、要するに提供側の論理によって決定されるということになるけれども、これははたしてユーザーにとって好ましいことかといえば明らかに否だろう。

で、こういうのが杞憂で別にSEO的なことを志向しているわけではない、のだとしても、日本語ドメインは決して覚えやすくない。httpやjpやスラッシュを排除できないのだし、漢字であれば、どの漢字かを確かめる手間も生じる。

それに単純に入力の利便性を言うなら、どうせ半角と全角を両方使わないといけないことになるのだから、逆に不便だ。アドレスバーに入力するほうが検索フォームに入力するより楽だということはまったくない。

というわけで、日本語ドメインの報道を聞くたびに、はやくなかったことにならないかなあ、と思わずにはいられなかったりする。

国民主権

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennppoukokuminnsyukenn.htm
http://d.hatena.ne.jp/tuki1gironn/20051209/1134097688

 国民主権の立場からの天皇批判に触れるたびに、「この人は天皇のことがよくわかっていないのではないか」と思うとともに、「国民主権についてもよくわかっていないのではないか」「いいかげんに気づけよ」と憤りを持つことがあります。

 いくら国民主権といっても、国民には持てない主権があります。統治権という主権です。統治権は国家が国民に対して持つものです。国民は直接民主制であっても統治権は持てません。統治される対象が国民であることは不変だからです。

 では国民主権というのは何に対する主権なのでしょうか。国民を代表する人を選ぶ権利=主権である。もし、そのように理解していたとしたら間違いです。ここに偽装があるのです。国民主権というのは「誰に国民を統治してもらうかを国民自らが決めることができる」という主権なのです。

国民主権は、天皇は統治者ではないから天皇制批判にはならない、というのはそのとおり。ただこの説明はちょっとおかしい。統治者も国民ですし、国家も国民から構成されます。統治権は国民に属する主権の一部です。その具体的な行使において、国民の中から代表者が選ばれるので、統治権を委任された代表者も、やはり国民です。「被統治者」という意味は、日本語としての一般的な意味ならともかく、国民主権とか政治学的な意味のこの言葉には含まれません。その意味がふくまれるのは、しいていえば「臣民」(subject)でしょう。だからこそ「自己統治」の原則が民主主義の重要な原理であるわけです。またそのように限定してしまうと、国民が統治者に、人事権以外で指図する権利、というのが、否定されます。しかし、極端な直接民主制は否定される方向にありますが、具体的な統治に関して国民の意思(とみなしうるだけの議論と手続きを経た意見)は、統治者に指図できる、というのは、国民主権の一部でしょう。よほどのことがないかぎり、そういうことはしないほうがうまくいく、というのはそのうえでの議論であって、権利自体はあるわけです。

で、統治者を国民に含まないという用語法を容認すれば、おっしゃっているのはナシオン主権の議論だと思うのですが、これはプープル主権説と並立する議論なので、現在どちらかというとナシオン主権的な観点が優位であるかもしれませんが、それでもって、「国民主権についてわかっていない」というのはちょっといいすぎなのではないでしょうか。むしろ単に別の考えを持っている、という話でしょう。

弥生とか

http://d.hatena.ne.jp/tuki1gironn/20051214/1134544495

(注。何回か書き直しています)

えーとですね、まずオーダーについては、ぼくは六千人でも十分多い、つまり、(神武天皇Y染色体の保存という点で皇室を特別扱いする理由はないという観点から見て)ごろごろいるという表現に値すると思うので、あるいは、当時の世代までさかのぼったとき男系同祖であるという観点で人々をグループ分けしたときに、国内では最大か少なくともベストテンくらいには入る集団である、という程度のことが言えれば十分なわけです。ですから、その点では争いませんよ。百万でも千万でももともと(計算の基礎になる)数字を出して議論していたわけではないので。

そのうえで、議論に同意できないところがいくつかあります。

まず縄文・弥生、あるいは渡来、在来の区別。この区別は議論に基本的には関与的じゃありません。ぼくの提出した議論にもともと国境の内外の区別はしていない。だから、その渡来系の、というようなひとも(勝ち残りYが多数に上る、という論点までの議論では)もとからカウントに入っています。

身分による繁殖優位を考慮にした、神武男系子孫、皇族+皇別諸氏族とその分家の、勝ち残りYのなかでのさらなる優位、という論点ですが、この論点については、渡来の考慮は関与的(国外では身分優位は別の家系にあるため)ですが、相対的優位については、渡来は、相対的に在来より少数でしょうから、その順位を基本的には動かさないでしょう。

同様に、娘の動向も関与的ではありません。娘がいくら増えようと、誰と結婚しようと、その父親の染色体の反映や拡大には、無関係です。もとからカウントしてません。極端な話、この世に女性がいなくて、男が単為生殖する場合でも、議論は同様に成り立ちます。というか、Y染色体にだけ着目している限り、男が単為生殖しているのと計算上は同じです。

身分に関する議論については、家督以外の男系子孫は、断絶しなければみんな相対的には身分が下がっていきます。カーストなどの血の移動がない階級とはまったく意味が違います。子供を残す数というよりも、できた男子が男子を残すまで生き延びる確率が問題なわけで、その点では上流階級が圧倒的に有利です。そして、上流階級が一定数にとどまるのは、上流階級の子孫が一定数にとどまりつづけるからではなく、子孫のうちの多数をつねに下の階級に出していくからです。また、「認知」される必要なんて遺伝子にはないんですから、「お手つき」で十分なのです。この場合には相対的な個別の繁殖条件での有利はないわけですが、数の優位の計算には入ります。

(念のためにいうと、身分・階級を基準とした性淘汰が働くのは基本的にはY染色体に関してだけで、その他の染色体に関しては女系でも伝わるので、遺伝子の存続に身分が上のものが非常に有利、ということはないと思う)

苗字に関する議論は、庶民の家系図は信用できない、だから皇別諸氏とその子孫であると称する家系が非常に多いことは事実だが、それは証拠にならない、という議論なのだと思うけれど、この議論は、日本人の大半が、という議論への反論としては一定の意味があると思いますが、家系図がある程度信用できる有力家系とその子孫だけでも十分、子孫がたくさんいるとみなしていいだけたくさんの家系があると思うので、それほど重要とは思われない。いいかえれば男系子孫ではない、ということもいえないわけで、この点では、苗字は傍証としては、ある一定以上のオーダーを主張するには弱い、というところでしょう。しかし、珍しくない、という程度のオーダーの主張するには、十分すぎるほど多い、と考えます。

あと、念のために書いておきますと、ぼくは「女系容認」「皇統存続」については「どちらでもいい」という立場です。左翼や進歩派が廃止論だというのは間違いです。しいていえば不要(どうしても不可欠、というわけではない、という)論にすぎないので、廃止すべき積極的な害がある、という議論は、いまや、共産党などのごくごく一部の認識に過ぎないでしょう。ですから、八木のような陰謀論まがいの警戒論は、過剰反応です。

参考

http://www.sh.rim.or.jp/~engokai/nihao/75_04.htm
韓国については姓の発生時に中国の姓の中から選んだことや、近代になって庶民が大量に姓を獲得した、という事情があるのでとりえずおくとして、中国の姓の少なさ、十億に対し数千というのは、参考になるのでは。もちろん、三世紀ごろ(大和朝廷成立時)を基準として父系同祖であった、という、神武を論じるときの条件がここにはあてはまらないので、単純に中国の姓ひとつあたりの人数はあてはめられませんが。

なお、数学なんかではゴルトン・ワトソン過程 
http://en.wikipedia.org/wiki/Galton-Watson_process
というらしい。優生学のフランシス・ゴールトン。

これはちょっとわき道。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/myouji.htm
江戸時代にも庶民にも名字はあっただろうという話。

ソレハトモカク 血縁でという話だと

ディアナ・ディア・ディアスISBN:4199050426)を思い出さずにはいられない。
ほかにも王の血統には癒しの能力の遺伝子があるとかいうSFがあったような気がするのだけど思い出せない。

ナルニア国物語

http://www.disney.co.jp/movies/narnia/
やっぱりリーピチープは別格で、泥足にがえもんに期待したい。って、二人とも登場はいつになることやら、だけど。

http://movies.aol.com/franchise/exclusives/chronicles_of_narnia_movie/trailer_extra_large

トレイラーを見ての感想。

スーザンが妙に色っぽいぞ。
ルーシーがイメージより子供。シリーズが進行するにつれて、育っちゃうと思うんだけど、どうなんだろ。それでいいという判断なのかな。

しかし、これはけっこうほかでも見た感想だけど、戦争映画になってるのはどうなのか。指輪もそうなってたけど。なんかスペクタクルすぎないか。
クリスチャン・テーマな部分は予告編には出てこなかったけどどうなってるんだろう。