http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030518#p32

 うえとつながることですが、データが意味を自称するというとき、意味していたのは、リンク文字列というデータにトラックバックという文字列があるために人間がそれをトラックバックとしてリンクとは区別して認識するという事実です。そのとき、わたしは見ている人がトラックバックという解釈制度の内部にいるとみなしていました。だから、その前提のもとでは解釈に自由度はありません。確実に言及の通知と解釈されるわけです。これに対し、リンク元の場合は、そのような制度が存在しません。したがって、人間の解釈行為の自由と不確実性、あるいは人間による解釈の努力の必要があります。(これははたして言及の通知を意味しているのだろうか?)
 ですから、データが意味を自称するのは、ページの閲覧者に対してです。自称するという言い方をしたのは、一定の規約のもとにあるばあい、それをトラックバックとして理解するかどうかに自由度はないからです。人間は、受動的に自称を受け取る客体です。ある解釈制度をうけいれているという前提のもとでは。自動処理というのは、送ったという事実が(ついでにいうとpingがおくるのはXMLじゃないです)、トラックバックとして理解されるように制度によって規定された文字列に変換される部分についてです。


データ自身は意味を自称しません。コンピュータは規約にしたがって解析します。そしておそらく表示もするでしょう。

しかし、最終的な解釈はその表示を見た人間が行います。トラックバックであるなら REFERRER とは違う方法でわざわざ送るのだから、より反応すべきものと考えるでしょう。

わたしはこれと違うことはいってません。ただ、解釈する人間は、そのトラックバックであるというなんらかの制度的に規定された指標に対して、その制度に規定された理解をすることを強いられるという意味で、(具体的にいえば、反応するかどうかではなく、トラックバックをされたと認識するということ)、データの側に主体をおいてかたることは正当である、とみなしたのです。