うーむ

たとえば「送受信するデータが RFC822(メール)であってもかまわないのです。」にぼくはべつに反対じゃない。データは意味を自称しないというのは、厳密に言えばそれはそうです。記号は客体であり物でしかない。でも、その議論は、文脈をはなれて、その言葉遣いだけを取り出していると思う。たしかに、不用意に解釈されうる言い方ではあった。しかし、すでに書いたように、トラックバックのリンクは、読者にとって、リンク元の表示とは区別して言及の通知として読まれる。そしてそのように読むことを、記号そのものではないにせよ、トラックバックという制度が強要する。主体性はその記号の側にある。その事態をさして、自称する、という言い方をすることが不適切だとは思わない。また、そういう経験上の事態をさしていることは文脈的に不明確ではなかったと思う。たとえば、赤信号はわたしに通行を禁止する。たしかにこの言葉遣いはおかしい。だが、現実にわたしは赤信号をそのような意味以外に解釈する自由を持たない、この意味論的な場においてわたしは客体です。(実際に解釈行為をやっているのは確かに私ですが、わたしはそのような意識をもたない)経験的な実感のレベルでは、トラックバックの表示された文字列が、自分はトラックバックであると読者に自称するんです。そのような事態をさして、トラックバックが有用であるという議論の文脈で語られている以上、わたしはそのような意味でデータの性質について誤解をして、そういう言い方をしたわけではない、ということです。あくまでも、トラックバックのリンクは、それを見る人間に特定の意味、解釈を強要するという論点は動かない。もちろん、この言葉遣いは、より正確にいえば、トラックバックのリンクはどういう表示のされ方をして、そしてどういう場合に、どういう意味をこめて使われるものだ、ということに、制度的な理解が存在することを前提にして、その制度全体が強要するので、記号単体が強要するわけではないから厳密にはまちがっている。しかし、その差異はこのさい、文脈から敷衍可能だし、問題にしていた論点にとっては無関係でした。わたしは文脈からはなれて、データは意味を自称するというテーゼを無限定にのべたわけではなかったはずですし、そのことの是非そのものを論じる意志ももちません。わたしは、あくまでも、そういう言い方で、特定の事態を言い表したのだったからです。