ガード

http://d.hatena.ne.jp/flurry/20050910#p2

本来の趣旨で言うなら「猫を飼う」のは、愛とは何かを体得する過程として位置付けられてるはずで。たとえば誰かが、猫の可愛さによって自己完結性を失うという経験をしたとする。彼がそこから得たものを(その猫相手だけでなく)他の存在にも活用することが出来ることが前提されているとしたら、それはどういうことなのか。

 それは、その誰かが「自己完結性の暴力的喪失」を安定して行うことができるということではないのか。一体どういう状況だよ。

「彼がそこから得たもの」と「自己完結性の暴力的喪失」が不当に同一視されています。「そこから得たもの」は「暴力的喪失」の結果です。ですから、「安定して行うことができる」ようになるものは、「暴力的喪失」ではなく、その結果としての「そこから得たもの」でしょう。

で、具体的にはどういうことかというと、愛という形で自己を喪うことへの抵抗が軽減される、ということです。


で、

内面とスキルの分離の問題については、いまひとつまとまっていないのですが、内面の態度と社会的スキルを分離しているわけではなくて、ぼくの内的条件とスキルの分割で言えば、内面的態度もまたスキルに属します。愛されるに足るような内面的態度の獲得などということは、少なくとも僕は考えていません。そうではなくて、愛するかどうか、ということです。相手を愛しているかどうかというのもたしかに二次的に、相手にとって評価される「内面的態度」になりえますが、しかし、この「内面的態度」としての愛することは、「愛しているように見せかけること」で代替できる。だから、これはスキルの一環です。そうではなくて、主体の側の条件として、愛するかどうか、を考えている。愛してなくても愛されることは可能だと思うけど、そんなことして意味あるのか、というか、それは、「恋愛したい」というとき、意味されていることとはいえないのではないか、ということです。

あー、でもたしかに「愛さなければ愛されない」という文脈では、愛することはスキル的な意味での内的態度の一環に位置づけているかもしれない。

むしろこの分割は、「一般的な異性が問題になっているフェーズ」と「特定の異性が問題になっているフェーズ」の分割で、この分割を、内面とスキルと表現した、ということなのだろう。あるいは、「関係の中でうまくやる能力」と「関係に入る決断」の差異。この二つの局面は、やはり分けて考える意味があると思う。

で、猫を飼って心配したり病気されたり死なれたりすることは、本質的に受身のコントロール不可能な経験だけれども、そのことで、リスクなしの、あるいは本質的には不安と無縁な愛という想像的イメージは駆逐されるだろう。そして、愛が本質的に不安で、部分的には破壊的でリスキーなものという認識がきちんとあれば、愛することをあらかじめ、その成就が保障されないからと意識的・無意識的に忌避するということがなくなるだろう。もちろん、その認識ゆえに恋愛を選択しないということもあるだろうが、その場合にはそのひとは「恋愛したい」とは言い出さないので問題はない。そして、すべてとはいわないが、恋愛と無縁になる原因の大きなものが、そうしたあらかじめの忌避なのではないか、ということです。