事実の中立性について

 いちおう考えていること。

 主観から独立した事実の真偽というのはあるし、問える。ただ、どういう事実を選んで明らかにするか、真である関連のうちどれを特に知ろうとするか、という次元では、立場性は原理的に排除できないのではないか。どういう知や学についても、そういう意味での歴史性があって、それは、その知や学にとって、「外的な」あるいは「付随的な」ものとはいえない。医学知識の体系に人命救助が規範として含まれていないとしても、医学知識がリストとして示されれば、そこにインプリメントされた「利害関心」「意図」は、観察者が恣意的に読み取ったものとはいえないだろう。

 仮定。返答は中立的だが、質問は中立的ではありえない。
 あるいは、知識は中立だが、知識集合は中立ではない。
 (なぜならどんな知識集合も、ありうる全知識の選択的な部分集合だから)

 関連
 http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html